宇宙戦艦ヤマトにちなんで〜プチ付録『日本海軍の戦艦』


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古代と雪 島大介 真田志郎
古代と雪 島大介

 ヤマト航海班長
真田志郎

 ヤマト技師長兼工場長
「古代、メカのことなら俺にまかせろ!」
加藤三郎 山本明 斎藤始
加藤三郎

 ヤマト艦載戦闘機隊隊長
山本明

 ヤマト艦載戦闘機隊所属パイロット
斎藤始

 地球防衛軍第十二太陽系外周
空母機動部隊所属空間騎兵隊
第一機甲師団中隊長

土方艦長1(「愛の戦士たち」ではヤマト艦長)
『さらば宇宙戦艦ヤマト〜愛の戦士たち』から  土方艦長


【日本海軍 戦艦 大和】〜昭和19年(1944年)秋期  battleship YAMATO 
日本海軍戦艦大和(1944年秋)
 大和(やまと)は、大日本帝国海軍が建造した史上最大の戦艦、大和型戦艦の一番艦。太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直後の1941年12月に就役し、やがて連合艦隊旗艦となった。この任は司令部設備に改良が施された同型艦 武蔵が就役(1942年8月)するまで継続された。1945年4月7日、天一号作戦において米軍機動部隊の延べ1,000機以上の航空機による猛攻撃を受け(魚雷14本、大型爆弾3発、小型爆弾多数)、坊ノ岬沖で撃沈された。当時の日本の最高技術を結集し建造され、戦艦として史上最大の排水量に史上最大の46cm主砲3基9門を備え、防御面でも重要区画(バイタルパート)では対46cm砲防御を施した、桁外れの戦艦であった。
【日本海軍 戦艦 長門】〜昭和19年時(1944年時)  battleship NAGATO
日本海軍戦艦長門(1944年)
 長門(ながと)は旧長門国を名前の由来に持つ日本海軍の戦艦で、長門型戦艦の1番艦。完成当時の1920年では世界最初であり、かつ最大口径の16.1インチ(当時日本はメートル法を採用していたため実口径は41cmちょうど)主砲と、当時の戦艦の中では非常に高速である26.5ノットの機動力を持つ高速戦艦で、世界の軍事史や軍艦史にも大きな影響を与えている。2番艦の「陸奥」と共にその高性能故に、各国海軍から注目され、当時大艦巨砲主義に染まっていた列強海軍の熾烈な建艦競争に、ワシントン海軍軍縮条約による一定の歯止めを与えるきっかけとなったのも本艦であった。完成後に連合艦隊旗艦となり、第二次世界大戦後に有名になった戦艦「大和」が戦中は存在そのものが極秘だったこともあり、戦前と戦中には長門・陸奥こそが日本海軍を代表する戦艦として、国民から親しまれた。太平洋戦争開戦時には戦艦「大和」が完成前で、連合艦隊旗艦として連合艦隊司令長官 山本五十六大将が座乗していた。太平洋戦争中は「大和」「武蔵」に次ぐ主力艦として温存され、終戦まで稼動可能な状態で生き残った唯一の日本戦艦である。
 日本軍の降伏後、長門は1945年8月30日にアメリカ軍に接収される。アメリカ軍による詳細な調査の後武装解除され、1946年3月18日にクロスロード作戦(米軍の核実験)に標的艦として参加するためマーシャル諸島のビキニ環礁へ移動する。7月25日の第二実験(BAKER、水中爆発)では爆心地から900-1000mの位置にあり、右舷側に約5度の傾斜を生じた。それでも長門は海上に浮かんでいた。しかし、4日後の7月29日の朝、原爆実験の関係者が長門のいた海面を見てみると、既に長門の姿は海上にはなかった。7月28日深夜から29日未明にかけての夜間に、艦内への浸水によって誰にも見取られる事なく静かに転覆し沈没したものと見られる。
 現在、長門沈没地点はダイビングスポットとしてこの地の貴重な観光資源となっている。沈没状態とはいえ、ビッグ7の中で一応形が残っているのは長門だけである。現状は上下逆さまで沈没しており、艦橋部分は折れている。
【日本海軍 戦艦 金剛】〜昭和17年(1942年)夏期  battleship KONGO
日本海軍戦艦金剛(1942年夏)

 金剛こんごう)は、日本海軍が初の超弩級巡洋戦艦として発注した金剛型の1番艦。2度の改装を経て高速戦艦に変身し、太平洋戦争でも活躍した。本艦は、太平洋戦争で日本海軍が使用した唯一の外国製の戦艦であり、唯一潜水艦の攻撃によって喪失した戦艦でもある。(工作艦として使用された朝日を除く)
 艦名は、奈良県と大阪府の境にある金剛山にちなんで命名された。
 金剛は太平洋戦争開戦時は同型艦榛名と共に南方攻略部隊の支援任務に就き、シンガポールに進出していたイギリス海軍最新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズと対峙したが交戦の機会はなかった。ガダルカナルの攻防戦では榛名と共に日本戦艦で初めてヘンダーソン飛行場を砲撃、同飛行場を一時機能停止に追い込んだ。
マリアナ沖海戦では機動部隊の護衛として出撃、レイテ沖海戦ではサマール島沖で遭遇した敵艦隊を攻撃し、護衛空母ガンビア・ベイ撃沈に最も貢献した。この海戦で損傷し、日本への帰途、台湾沖で米潜水艦シーライオンの魚雷攻撃を受けた。命中した魚雷は2本であったが、当時すでに艦齢30数年と老朽化が進んでおり、さらには攻撃を回避するため破損したまま高速を出したため(機関の損害は軽微だった)、リベットの継ぎ目などから浸水、徐々に破損箇所が広がり、大きく傾斜し転覆。弾薬庫の爆発を起こして沈没した。
 沈没時に艦首に掲揚されていた軍艦旗は乗員によって回収され、同氏が捕虜になった関係から一時中国に接収されていたが、1969年に台湾政府より返還され、海軍のOB会「黒潮会」によって管理されていたが、会員の高齢化によって同会が解散した際、旗を回収した乗員の地元である福岡県飯塚市に寄贈され(平成21年10月15日)、飯塚市歴史資料館に保存されている。

【日本海軍 戦艦 榛名】〜昭和19年(1944年)秋期  battleship HARUNA
日本海軍戦艦榛名(1944年秋)
 榛名 (はるな)は、日本海軍の戦艦で、金剛型戦艦の3番艦。榛名の艦名は、群馬県にある上毛三山の1つ、榛名山に由来する。戦艦にも拘らず旧国名ではなく山岳名を持つ理由は、本艦を含む金剛級は当初「装甲巡洋艦」として計画されたため、一等巡洋艦の命名慣例に従ったものである。
 1941年12月4日、馬公を拠点に出撃し、陸軍の馬来上陸作戦支援を皮切りに、比島上陸作戦・蘭印(オランダ領東インド=現インドネシア)攻略作戦などを支援した。この間、シンガポールを出撃した英戦艦プリンス・オブ・ウェールズ・同巡洋戦艦レパルスを中心とする英国東洋艦隊を迎撃すべく邂逅を図るも果たせず、同艦隊が日本軍航空隊に壊滅させられるという一幕もあった(マレー沖海戦)。
 1942年2月には真珠湾攻撃などを終えて回航された南雲機動部隊と合流、同型艦4隻が揃ってインド洋作戦に従事、3月1日にジャワ島近海でオーストラリア方面へ遁走する米駆逐艦エドソールを僚艦と共に砲撃により撃沈、3月7日にはクリスマス島砲撃を行った。
 同年6月5日ミッドウェイ海戦では、霧島と共に機動部隊の護衛に当たるが味方空母部隊は全滅、奮戦のすえ攻撃を受け炎上する空母飛龍の乗員を救助するが、榛名自身も至近弾を受けて損傷した。
 同年9月、激戦化したガダルカナル方面の戦闘に参加するため前進部隊本体に編入され、トラック島へと本拠を移した。苦境に立った陸軍の要請により10月13日、金剛と共にヘンダーソン飛行場を砲撃で一時使用不能にした。
 1944年6月19日マリアナ沖海戦に参加、戦艦大和など前衛部隊の一艦として出撃するも、主力空母部隊は大損害を受け敗退、榛名も直撃弾2発を受けて損傷する。この損傷は意外に深手で、修理完了後も全速力を出すと艦尾が振動するなど「榛名」の戦力発揮に影響を与えた。損傷修理と併せて舷窓閉塞など不沈工事や対空火器の大幅増強が行われている。
 同年10月フィリピン・レイテ島に上陸した米軍に対し発令された捷一号作戦に参加、本艦は栗田中将指揮の第一遊撃部隊の一艦として上陸中の米陸軍部隊を砲撃すべく進撃を続け、25日サマール島沖にて発見したスプレイグ少将指揮下の第77任務部隊との交戦、いわゆるサマール島沖海戦では米艦隊を追撃したが、前述の艦尾振動の影響により「金剛」ほどの戦果を上げることができなかった。混乱する戦局の中で栗田中将より撤退命令が下され、榛名も帰途スル海(フィリピン西方海上)において米軍の追撃により至近弾を受け損傷する。このため内地に帰投、呉にて修理を行った。
 最期は防空砲台となるべく呉の対岸・江田島小用沖に転錨。1945年7月24日と28日の呉軍港空襲により今度はマッケーン中将率いる第38任務部隊による大規模な攻撃を受け、同様に燃料も無く為す術の無い状態の航空戦艦伊勢・日向や航空母艦天城らと共に停泊していた榛名は、2番砲塔の砲側照準による3式弾射撃などによって激しく抵抗を行ったものの20発以上の命中弾を受け浸水、大破着底した。
 戦艦榛名は開戦時すでに艦齢26年の老朽艦であるにも拘らず最前線にあって主要海戦の多くに参加しており、しばしば損害を受けた。その姿は、開戦直前に完成して最前線での主要海戦でもほとんど損害を負うことが無く「幸運の空母」とも賞される空母瑞鶴と対照的であるが、この2艦は駆逐艦雪風などと共に「日本海軍の武勲艦」と評されることが多い。また日本戦艦で最も多くの海戦を生き延び、その終末を解体という形で迎えたことから、諸書には「戦艦榛名は戦後復興のための資材となった」旨の記述が多くみられる。
【日本海軍 航空戦艦 伊勢】〜昭和19年(1944年)秋期  battleship-aircraft carrier ISE
日本海軍航空戦艦伊勢(1944年秋)
 伊勢(いせ)は大日本帝国海軍の戦艦。伊勢型戦艦の1番艦。艦名の由来は三重県の旧国名からで、後に海上自衛隊の護衛艦「いせ」に引き継がれた。当初は扶桑型戦艦の3番艦として建造が予定されていたが、扶桑型に砲力や防御力、運用面等で問題点が生じたため再設計が行われ、準同型艦の伊勢型の一番艦として建造された。
 太平洋戦争後半には戦術変更に伴って、姉妹艦の日向と共に後部主砲塔二基を撤去し、艦載機発艦用飛行甲板(但し、発艦限定であり、瑞雲以外の機体を回収することは不可能。)を設け、搭載機数22機という軽空母なみの航空打撃力を持つ航空戦艦へと改装された。
 同型艦日向が砲塔爆発事故を起こしたのを機に、1944年に日向と共に航空戦艦に改装されたが、艦載機を搭載することができないまま空母機動部隊に所属し、レイテ沖海戦に参加した。この時の対空戦で第四航空戦隊司令官松田千秋の発案した弾幕射撃が効果を挙げ、航空機多数撃墜(30〜70機)を報告している。また巡航速度で移動し、敵艦上爆撃機が降下態勢に入ると同時に思い切り舵を切るという爆弾回避術も大いに効果をあげた。この機動を急降下爆撃を行う艦爆側から見れば、目標が後逸していくので見失ってしまう。さらに艦爆は一度降下に入ると大きな目標修正ができず、重量物である爆弾を投下しない限り再び上昇できなかった。これらから艦爆は狙いが逸れたまま爆弾を投下して上昇するしかなかった。
 大戦末期、日本国内では石油・ゴムなどの資源が枯渇した。そこで本艦は連合軍制海権下の南シナ海などを強行突破して資源を輸送する「北号作戦」に参加する。この作戦では輸送部隊に接近しようとした潜水艦を主砲で砲撃するなど、半ば奇想天外ともとれるような戦術を駆使しながらも、奇跡的に無傷で呉に帰還を果たした。この後の伊勢は燃料不足のため「呉鎮守府第1予備艦(浮き砲台)」に指定され、燃料不足と米軍の機雷封鎖で行動不能な状態のまま呉港外三ツ子島(倉橋島北東、34゚12'N/132゚31'E)海岸付近の海面に停泊していたところを1945年7月28日の呉軍港空襲で米機動部隊の艦載機に攻撃され大破着底し、終戦後引き揚げられてスクラップにされた。
 歴代艦長として山口多聞、古賀峯一といった後の著名指揮官も輩出した。
【日本海軍 戦艦 山城】〜昭和19年(1944年)秋期  battleship YAMASHIRO
日本海軍戦艦山城(1944年秋)
 山城(やましろ)は、日本海軍の戦艦。扶桑型戦艦の2番艦。横須賀海軍工廠で建造された。
 扶桑型戦艦2番艦「山城」は1913年11月20日、横須賀海軍工廠で起工され、1915年11日3日進水、1917年3月31日就役した。完成時は世界最大の戦艦で、また初めて排水量が30,000トンを越えた戦艦でもあった。 しかし、完成早々に「扶桑」型の二隻はその欠陥を露呈した。まず公試運転において、速力が十分に発揮できない事と舵を切るだけで速力が大幅に低下する事が判明した。その後の射撃試験では主砲の爆風が艦全体を覆いつくし、艦橋構造物にダメージを与える事も判明している。通常、主砲は2個を1つとして指揮するのだが、三番主砲と四番主砲の間に煙突があるため三番、四番主砲の指揮がとりにくい。その後扶桑型戦艦の改良版の伊勢ではこの結果が、反映されている。これらの欠陥のため、問題が発見されるたびに改装を行う事となり、大正〜昭和初期にかけて改装に次ぐ改装を繰り返し、艦隊で行動した期間よりもドックで改装を行っていた期間のほうが長いという、“艦隊にいる方が珍しい艦”となってしまったとされている。
 就役から大改装までの間、航空艤装の搭載などの小規模な改装は度々行われてきたが、1930年(昭和5年)から1935年にかけて、大改装が行われる事となった。これにより艦橋構造物は大幅に巨大、複雑化した。各種機器の改正も行われ、機関を換装し速力を24.5ノットまで上昇させる事に成功し、射撃指揮装置の換装と主砲、副砲の抑角増大により砲戦距離が飛躍的に伸びた。また、この改装の際に新式の九一式徹甲弾が使用可能となった。さらに航行中の水による抵抗の減少を図って艦尾を15m延長した結果出来た艦尾スペースに従来5番砲塔上に搭載されていた射出装置を移設し、航空機運搬用のレールを設けて水上偵察機及び観測機を3機搭載した。更に日本戦艦として初めて12.7cm高角砲も搭載し、防御装甲の追加工事も行われている。この改装の結果、「扶桑」型の2隻は能力を向上させる事が出来たが、比較的早期に改装が計画されたためか、他の主力戦艦群と比べるとその装置は旧式で決して満足できるものでは無かったようである。
 太平洋戦争初期〜中期は、「扶桑」型戦艦のほか日本海軍の戦艦のほとんどは内地にあった。「山城」は1942年6月のミッドウェー海戦に主力部隊として出撃するが戦闘には参加せず、そのミッドウェーで失った空母戦力穴埋めの為の航空戦艦改造案が扶桑と共にあったものの実現されなかった。その後も内地で待機の任務が続き、練習艦として使用されていたが、1944年になって戦況が悪化すると「山城」にも出撃命令が下った。作戦はレイテ湾への突入、輸送船団を撃破し上陸部隊を攻撃すべしという無謀な作戦であった。 このような欠陥があり老朽戦艦でさえも戦陣に出さなければならないほど事態は逼迫していたのである。
 西村祥治中将の旗艦となった「山城」は、リンガ泊地から10月22日午後3時に出撃した。 10月24日午前にスールー海でハルゼー指揮の機動部隊の攻撃を受けるが、米機動部隊が栗田艦隊を発見しそちらの攻撃に向かったため、西村艦隊はそれ以降機動部隊の攻撃を受けず予定通りスリガオ海峡を目指して進撃した。ミンダナオ海を抜けてレイテ沖海戦のスリガオ海峡夜戦(昭和19年10月25日未明)において、志摩艦隊に先んじて敵艦艇(戦艦6隻、重巡4隻、駆逐艦26隻、魚雷艇37隻)がひしめくスリガオ海峡に突入した。この突入は栗田艦隊がシブヤン海において激しい航空攻撃を受けて一旦西へ退避したことによりレイテ湾に突入する時間が前後してしまったためである。ただ闇雲に突入したと誤解されがちだが西村長官は逐一自隊の状況を栗田長官に報告している。
 最期は「山城」はアメリカ海軍の戦艦と巡洋艦からレーダー射撃を受け、自らも前方に見える砲火の閃光を目標に応戦した。このとき西村祥治中将は「我魚雷を受く。各艦は我に省みず前進し、敵を攻撃すべし」と残存艦に最後の悲壮な指令を出した。その後も「山城」は命中弾と駆逐艦の魚雷攻撃により艦の速度が低下、その後被雷により機関が停止。火薬庫に引火して爆発を起こし、右舷へ転覆して艦尾から沈没した。
  【引用参考参照『Wikipedia』。敬称略】
  
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