飯田線(JR東海) 各駅探訪~門島駅(門島-唐笠) 
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 このページでは特に飯田線の門島駅(門島-唐笠)周辺の様子を撮影したり撮り鉄した写真画像などを掲載しています♪
門島駅は、同駅の北方にある泰阜ダムの建設用資材の輸送や舟運の貨物代替輸送などのために設置されたそうです。


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田本駅 鉄道関連趣味の部屋♪~飯田線(JR東海) 各駅探訪『飯田線 各駅探訪』TOPへ♪ 唐笠駅


飯田線(JR東海) 門島駅 かどしま Iida Line
門島駅 【豊橋起点:107.9km】  2023.10.02現在 ~☆なお、以下に掲載する写真は特筆が無い限り同じ日に撮影した写真になります。

 長野県下伊那郡泰阜村(やすおかむら)門島にある飯田線の門島駅(かどしまえき)です。

 上の写真は、門島駅の構内の様子を、同駅南側から撮影したもので、写真奥方向が北西方向で、唐笠駅方面(天竜峡・飯田方面)になります。

 門島駅は、当駅の北方約600mあたりの天竜川に建設された泰阜ダム(やすおかダム)の建設用資材の輸送や、同ダムの建設によって途切れてしまう天竜川の舟運の貨物代替輸送などのために開設された駅なのだそうです。

 そのためか、門島駅の構内には側線があり(かつてはもう1本側線があった)、貨物の積み下ろしができるスペースも確保されていたようで、「秘境駅」とよばれる駅が多いこのあたりの駅としては、広々とした構内を持つ駅となっています。

 泰阜ダムと泰阜発電所が建設中の1932年(昭和7年)から1935年(昭和10年)までの時代は、三信鉄道が門島~温田間を延伸工事中の時期と重なっていて、おそらく当時の門島駅の周囲は非常に活気にあふれ、工事関係者が当駅と建設現場をひっきりなしに行き来していたことと思います。

 なお、泰阜発電所は、門島駅が開業する8ヵ月前の1932年(昭和7年)2月に着工、泰阜ダムは門島駅が開業した2ヵ月後の1932年(昭和7年)12月に着工とされています。


 門島駅は、1932年(昭和7年)10月30日に、三信鉄道が天竜峡~門島間を開業させた際の終着駅として開業され、1935年(昭和10年)11月15日に三信鉄道が温田駅まで延伸された際に途中駅となり、戦時中の1943年(昭和18年)8月1日に三信鉄道線が飯田線の一部として国有化されて鉄道省の駅となりました。

 戦後は、1949年(昭和24年)6月1日に発足した日本国有鉄道(国鉄)の駅となり、1971年(昭和46年)12月1日に貨物と荷物の取り扱いが廃止されて旅客駅になり、1984年(昭和59年)2月24日には駅員無配置駅とされています。

 そして、1987年(昭和62年)4月1日の国鉄分割民営化により、現在のJR東海(東海旅客鉄道)の飯田線の駅となり、1997年(平成9年)12月15日に、それまであった木造の駅舎が解体されたそうです。

 現在の門島駅は、島式ホーム1面2線の地上駅で、側線も有り、駅構内には保線作業用車両が留置されていたり、レールなどの資材が置かれていることから、飯田線の保線作業拠点となっているようです。



門島駅の西側から北西方向を見る

 写真奥方向が唐笠駅方面(天竜峡・飯田方面)で、写真右側のほうに門島駅構内と島式ホームの唐笠方が見えています。

 写真中央奥やや右側には、当駅付近の見どころともなっている泰阜発電所の巨大なサージタンクが見えています。

 現在、門島駅にアクセスすることができる道は、写真左側の奥のほうへ続く道(長野県道242号粟野門島停車場線)のみとなっています。(廃道など一般の人が利用しない道を除く)

 写真左側に見える、現在、門島駅への唯一のアクセス道となっている道を写真奥のほうへ行くと、諏訪神社、櫓橋、泰阜発電所、泰阜ダムがあり、天竜川に架かる櫓橋を渡って長野県道83号下条米川飯田線を西方向へ進んで行くと、国道151号が通る下條村方面へ出ることができます。


門島駅構内を西側から見る

 写真奥方向が南東方向で、田本駅方面(平岡・豊橋方面)になります。

 写真左側のほうに、門島駅のホームとその上に建つ待合室が見え、駅構内には保線作業用車両が留置されていて、空地にはレールがたくさん積まれているのが見えています。

 写真右側に見える道路(長野県道242号)の先(写真奥)には、建物が見え、その建物の向こう側(奥側)が門島駅のホームへの出入口となっています。

 このように、門島駅には保線作業用車両、積まれたレール、建物などがあり、これらのことから、現在の門島駅は、当駅周辺の飯田線の保線作業のための拠点となっていることがうかがえます。

 なお、この時は、写真右側に見える、門島駅前まで続く道(長野県道242号)の同駅付近には、何台かの駐車車両があり、どうやら門島駅構内で何らかの作業が行われていたようです。


門島駅構内のレール置き場付近から唐笠駅方面を見る

 上述のとおり、写真左側に見える道(長野県道242号粟野門島停車場線)が、現在、門島駅まで到達することができる唯一の道となっています。

 写真右側に、門島駅構内に積まれたレール、留置されている保線作業用車両、同駅のホームなどが見えています。


ユニークな外観の窓を持つ門島駅ホーム上の待合室

 上の写真は、門島駅のホーム上に建つ待合室の様子を、駅構外の西側(道路側)から撮影したものです。

 当駅を訪問された多くの方々がご紹介されているように、門島駅のホーム上に建つ待合室は、三角形の矢印マークと四角形で構成されたユニークでお洒落な外観の窓を有しています。

 まるで、オーディオプレイヤーの再生ボタン(◀▶)と停止ボタン(■)を彷彿とさせるようで、見る方達を和ませることと思います。

 ひょっとしたら、和風建築や洋風建築など建築業界では、このようなデザインはひとつの手法として定着しているのかもしれませんが、私では詳細はわかりません。


門島駅のホーム出入口付近の様子

 ホームの出入口は、写真に見える建物の向こう側(裏側)にあります。

 建物脇には、NTTの公衆電話ボックスが設置されているのが見えています。

 門島駅には、1997年(平成9年)12月15日に解体されるまで木造の古い駅舎がありましたが、その駅舎は写真右奥に見える建築物あたりにあったと推測されます。

 当時の木造駅舎の写真を見てみると、駅舎があった当時にも、駅舎の北側に電話ボックスが設置されていました。

 ただし、電話ボックスの位置が、木造駅舎があった頃から移動していない、という確証はありません。


門島駅前に設置されたNTTの公衆電話ボックス

 1991年に撮影されたと思われる、門島駅の古い木造駅舎の写真にも、写真とほぼ同じ場所あたりにあった(あるいは同じ場所にあった)公衆電話ボックスが写っています。

 ただし、当時の写真に写っている公衆電話ボックスは、現在のシックな感じの緑色基調の電話ボックスではなく、当時よく見られた赤い屋根にシルバー基調の枠組みの電話ボックスとなっています。


門島駅のホーム出入口付近の様子

 天竜川に架かる櫓橋から門島駅へ向かう長野県道242号の突き当たりの場所となっているところに、門島駅のホームへの出入口があります。

 写真右側の何もないところに、線路を渡ってホームへ行くことができる構内踏切があります。

 ちょうど、このあたりの場所に、かつての門島駅の古い木造駅舎があったと推測されます。

 写真左端側に見える門島駅前の道(長野県道242号)を写真奥方向へ約200mほど行くと、諏訪神社があり、泰阜発電所、天竜川に架かる櫓橋(長野県道83号)方面へ出ることができます。


門島駅のホームへの出入口

 「ここがホームへの出入口?」

 …と思うぐらい、他の飯田線の駅と比べても、駅の出入口らしい目印になるものは特に何もなく、門島駅前を通る長野県道242号を突き当たりまで来ないと、「駅の出入口はどこだろう?」となってしまうぐらいです。

 写真奥のほうに、線路を渡ってホームへ行くことができる構内踏切があります。

 写真右側のほうには、イベントなどで使われる仮設トイレのような簡易型のトイレが設置されています。

 かつては写真右側のあたりに、現在のものと比べれば立派な、小屋のようなトイレの建物があったようです。

 写真左側が北西方向で唐笠駅方面(天竜峡・飯田方面)、右側が南東方向で田本駅方面(平岡・豊橋方面)になります。


門島駅前を通る長野県道242号の行き止まり

 天竜川に架かる櫓橋を渡った先の左岸側(東側)を北方向へ曲がると、その先は長野県道242号で、約100mほど北方向へ進むと諏訪神社が右側に、泰阜発電所が左側にあり、その場所で180度U字ターンとなっている長野県道242号を約200mほど南東方向へ進むと門島駅前に出ることができ、その先は上の写真のように行き止まり(長野県道242号の終点)となっています。

 写真右奥の行き止まりの先には、ちょっとした広場があり、自動車が駐車できるスペースとなっているようです。


門島駅構内の田本方にある構内踏切

 構内踏切を渡った先に、島式ホームの田本方(平岡・豊橋方)にあるホーム出入口があります。

 構内踏切と言っても、遮断機も無ければ、踏切警標もありません。

 私が訪れた時は電車が来なかったのでわかりませんが、おそらく列車の接近を知らせる警報音は、さすがに鳴り響くと思いますが、構内踏切を渡る際は十分注意が必要です。

 おそらく、この場所は、かつてあった門島駅の木造駅舎の改札口があった場所になるのだろうと思います。


構内踏切の元駅舎改札口寄りから田本駅方面を見る

 写真奥方向が南東方向で、田本駅方面(平岡・豊橋方面)になります。

 私が立っている場所は、かつてあった門島駅の木造駅舎の改札口があった場所と推測されます。

 この場所から門島駅の田本駅方面(平岡・豊橋方面)と唐笠駅方面(天竜峡・飯田方面)を見てみると、駅のすぐ近くにトンネルが無く、門島駅は比較的開けた場所にあるということがわかります。

 線路は3本見えていて、奥側の2本が上下本線(当駅の島式ホーム左右にある1番線と2番線)、いちばん手前側の線路が側線になります。


構内踏切から田本駅方面を見る

 線路は3本見えていて、左側の2本が島式ホームに接する上下本線(1番線と2番線)、いちばん右側の線路が側線になります。

 なお、写真左側に見える白色系のボックス型の設備には「門島落R」と書かれています。

 おそらく、落石の警報などを伝えたりするための保安関連設備だと思われます。

 かつて、このような落石警報に関する電気設備が無かった時代には、飯田線の落石や土砂崩れが発生しそうな区間には「落石警戒番舎」なるものが設置されて人が配置され、日々警戒に当たっていたそうです。

 現在は秘境駅として知られる中井侍駅付近を撮影したとされる古い写真には、同駅近くの落石警戒番舎と思われる場所で数人が焚火(たきび)をして煙が立ち上っている様子が撮影されたものがあります。

 そのことから、ひょっとしたら、落石警戒番舎の配置員が、沿線に落石や土砂崩れなどが発生した場合の危険情報を走行中の列車の運転士に伝える際には、古典的な手法の「狼煙」(のろし)を伝達手段として用いていたのではないか、ともいわれているようです。(要検証)

 焚火の際に発生する煙は、目視による通信手段のひとつとして考案され、古代ローマ時代以降では軍事目的の通信にも利用されるようになったそうで、その伝達速度は時速140kmを超えるといわれています。

 日本国内でも、8世紀頃の日本書紀に記述が見られ、戦国時代においては武田信玄など戦国大名が通信手段として使用していたと言われ(長篠の戦いにおける鳥居強右衛門も使用したといわれる)、昭和30年代まで本土に近い離島において通信手段として使用されていた実績があるそうです。

 昭和の戦前・戦後直後あたりの時代には、落石警戒番舎から走行中の列車の運転士に危険情報を伝達する手段は限られていたと思われ(信号用雷管や発煙筒などが使用されたとも)、ひとつの手段として狼煙が使われていたとしても、なんら不思議はないと思われます。

 現在は、このような電気設備が発達した時代とはいえ、JR東海による落石警戒保安設備の維持管理の苦労は並々ならぬものがあると思われ、現在も私達が飯田線を利用できる「ありがたみ」を感じざるを得ません。


構内踏切から唐笠駅方面を見る

 写真奥方向が北西方向で、唐笠駅方面(天竜峡・飯田方面)になります。

 写真左端側には、かつては木造駅舎がありました。

 一番左側の線路は側線で、側線の先には保線作業用車両が留置されているのが見え、同車両の左側にある空地にはレールが積まれているのが見えています。


構内踏切とホーム出入口の接続部の様子

 ホーム出入口周囲にはフェンスが設置され、写真右側には、列車接近時に「列車がきます」と電光表示され警報音が鳴り響く列車接近警報器が設置されていますが、遮断機や踏切警標はありません。


ホーム出入口付近から田本駅方面を見る

 写真奥方向が南東方向で、田本駅方面(平岡・豊橋方面)になります。

 写真左側には、田本駅構内に迫る山の斜面に施工されたコンクリート擁壁が見えています。


ホーム出入口から構内踏切を見る

 かつては、ここから構内踏切を渡った先には木造の駅舎がありました。

 ネット上で見かけた、1977年(昭和52年)8月に撮影された門島駅構内が写っている写真を見てみると、当時は構内踏切の写真手前側のホーム側には遮断機が設置されていたように見えます。

 また、構内踏切を渡った先の写真奥のほうには、木造駅舎が建っていたようです。


ホーム出入口付近から見たホームの様子

 写真奥方向が北西方向で、唐笠駅方面(天竜峡・飯田方面)になります。

 門島駅は、島式ホーム1面2線の駅となっています。

 ホーム出入口は基本的にスロープ形状(斜路)となっていますが、写真左側のほうは階段形状になっています。


ホームに上がった場所あたりから田本駅方面を見る

 島式ホームの左右に1・2番線があり、写真の一番右側に見える線路は側線になります。


ホームの田本方の様子

 写真左側に見える、屋根付きの場所には切符回収箱が設置されています。


ホーム上から南方向を見る

 かつては、写真左端側の建物が建っている場所あたりに木造の駅舎がありました。

 現在の門島駅は、保線作業関連の拠点になっているようです。



ホーム上から西方向を見る

 門島駅構内の南西側にある側線には、保線作業用車両が留置されていて、その脇の空地にはレールが積まれていました。

 この日は、門島駅周辺でなんらかの保線関連の作業が行われていたようで、門島駅前を通る長野県道242号の路上には、関係者の方達のものと思われる車が駐車されている様子が見られました。



ホーム上から田本駅方面を見る

 写真奥方向が南東方向で、田本駅方面(平岡・豊橋方面)になります。

 島式ホームの写真左側が2番線で「上り 中部天竜・豊橋方面」、右側が1番線で「下り 天竜峡・飯田方面」になります。

 写真右端に見える線路は、側線になります。


ホーム上にある駅名標

 JR東海の駅によく見られる、いたって一般的な駅名標です。


ホーム上の駅名標がある場所あたりから田本駅方面を見る

 写真左側の山の斜面に施工された擁壁は、コンクリートではなく石積み式となっています。

 この石積み式の擁壁が、門島駅開業当初からのものなのかどうか、興味があるところです。


ホーム上の駅名標がある場所あたりから唐笠駅方面を見る

 駅名標の近くには待合室が設置されています。


ホーム上にある待合室

 屋根と側壁があって、出入口にスライド式のドア(引き戸)もある、密閉型の小屋タイプの待合室となっています。

 1番線と2番線の表示も取り付けられていて、「警察官立寄所」と書かれたプレートもドア部分に貼られています。

 待合室の窓の形は、上述のとおり、三角形と四角形で構成されたユニークでお洒落さを感じされる外観となっています。


ホーム上にある待合室内部の様子

 待合室内部には、長椅子(ベンチ)が設置されています。

 写真奥のほうの壁面に掲示されていた時刻表を見てみると、門島駅を発着する列車の本数は、上り「中部天竜・豊橋方面」が1日10本、下り「天竜峡・飯田方面」が1日10本となっていました。



ホーム上の駅名標がある場所あたりから田本駅方面を見る

 写真奥方向が南東方向で、田本駅方面(平岡・豊橋方面)になります。

 写真のホーム左側に見える線路が2番線で「上り 中部天竜・豊橋方面」です。

 ここから約108km先の豊橋駅までは、門島駅から普通列車(直通)で約3時間程度かかります。


ホーム上の待合室がある場所あたりから唐笠駅方面を見る

 写真右側に見える線路は2番線で「上り 中部天竜・豊橋方面」になります。

 上述のとおり、ホーム中ほどの山側の擁壁は、コンクリートではなく石積み式となっています。


ホーム上の唐笠方から待合室を見る

 門島駅の2018年度の1日平均乗車人員は4人とされていますが、風が冷たく寒い冬の季節は、このホーム上の密閉型の待合室が、少しでも当駅利用者の方の体が冷えてしまわないよう役に立っているものと思いたいです。


ホーム上の待合室を唐笠方から見る

 写真奥方向が南東方向で、田本駅方面(平岡・豊橋方面)になります。

 写真右側には、側線に留置されている保線作業用車両が見えています。


ホーム中ほどから唐笠駅方面を見る

 写真奥方向が北西方向で、唐笠駅方面(天竜峡・飯田方面)になります。


ホーム北西端側(唐笠方)の様子

 門島駅構内の唐笠方で、1番線から側線(写真左端の線路)が分岐しています。

 かつての門島駅構内には、写真左端側のほうに、さらにもう1本側線があったようです。


ホーム北西端寄りから田本駅方面を見る

 門島駅のホームの幅はけっこう広めで、開業当初は天竜峡方面からの終着駅となっていたこともあり、開業当時、このホーム上は多くの人達が行き交っていたのでしょうか。

 門島駅構内の様子を撮影した古い写真を見たことがありますが、今は記憶が曖昧ですので、また見る機会があったら、しっかり見直してみたいと思います。


ホーム北西端側から唐笠駅方面を見る

 写真奥方向が北西方向で、唐笠駅方面(天竜峡・飯田方面)になります。

 写真右奥のほうの樹々の合い間には、門島駅の北西約200mあたりのところにある泰阜発電所の巨大なサージタンクが見え、写真左端のほうの線路脇には、鋼鉄製の橋桁と思われるものが置かれているのが見えています。

 門島駅構内の唐笠方で、1番線と2番線が合流(分岐)していて、唐笠駅方面へ向けて再び単線となっています。

 また、1番線からは側線(写真左端の線路)が分岐しています。

 なお、写真手前側下方に見える電気設備類のものと思われる小型の箱には「ATS-PTJB(辰野方)」と書かれています。

 ちなみに、写真の1番線と2番線が合流・分岐している少し先の場所には、かつて「門島踏切」があったようで、その踏切を渡って写真右側にある山中の小道(山道)を九十九折り(つづらおり)に上がって行くと、長野県道1号飯田富山佐久間線を経て泰阜村役場のほうへ通じていたようです。

 ただし、おそらくその山道を歩くのは体力的にきつく、現在は不通または廃道になっている可能性があり、門島駅から泰阜村役場までは東方向へ直線距離でも約2.9kmありますので、徒歩では苦難の道のりだったと思われます。


ホーム北西端側(唐笠方)から南方向を見る

 写真に見える保線作業用車両が留置されている側線のほかに、写真右奥のあたりに、かつてはもう1本側線があったようです。

 門島駅がこの場所に開設された主な理由は、当駅の北方約600nあたりの天竜川に建設された泰阜ダム(やすおかダム)の建設用資材の輸送や、同ダムの建設によって途切れてしまう天竜川の舟運の貨物代替輸送などのためとされています。

 そのため、門島駅の開業当時は、貨物列車がそれなりの本数発着(1日に1本、あるいは数日に1本だったかもしれませんが)していたものと思われ、現在のように側線が1本だけでは電気機関車や貨車の入換、機回しなどに支障があったと思われ、かつては側線が2本あったのだと思われます。

 また、門島駅は、1932年(昭和7年)10月30日に、三信鉄道が天竜峡~門島間を開業させた際の「終着駅」として開業されていますので、1935年(昭和10年)11月15日に三信鉄道が温田駅まで延伸されるまでは、側線が1本だけでは、旅客列車と貨物列車の終着駅としては機能不足だと思われ、かつては側線が2本あったのだと考えられます。


ホーム北西端側から田本駅方面を見る
←写真左

 写真奥方向が南東方向で、田本駅方面(平岡・豊橋方面)になります。

 かつては、三信鉄道の天竜峡~門島間が開業された際の終着駅であったり、泰阜ダムと泰阜発電所の建設用資材の輸送や、天竜川の舟運の貨物代替輸送などを担っていて、おそらくにぎわいを見せていたであろう門島駅は、今はひっそりとした山間部の合い間に佇む静かな駅となっています。

 ただ、そうはいっても、門島駅の近くには、集落(櫓橋付近)や泰阜発電所、泰阜ダムがあり、また、天竜川対岸にも阿南町の集落がありますので、この先もまだまだ「秘境駅」化してしまうことはなさそうです。

 以上、門島駅の様子をご報告いたしました♪



門島駅周辺の様子
諏訪神社と櫓橋

 上の写真は、門島駅の北西約200mあたりのところにある諏訪神社を撮影したものです。

 写真右奥のほうには、天竜川に架かる、赤色のワーレントラス橋の「櫓橋」(やぐらはし/長さ 144m 1976年3月竣工)が見えています。

 この場所のすぐ右側に泰阜発電所があります。

 この写真を撮影した場所は泰阜村、櫓橋を渡った先の天竜川対岸(右岸/西側)は阿南町になります。

 写真に見える、諏訪神社の周囲をぐるりとヘアピンカーブのように180度U字ターンしている道路が、長野県道242号粟野門島停車場線になります。

 長野県道242号粟野門島停車場線は、写真右奥に見える天竜川に架かる櫓橋と、写真左奥のほうへ約200mほど上がって行った先にある門島駅を結んでいて、門島駅前あたりで終点(行き止まり)となっています。


 なお、写真左側に見える門島駅方面へと続く長野県道242号の道路の左側には、石垣(石積み)があって、その上部には雑草が生い茂っている場所があります。

 ある方がネット上でレポートされていましたが、その部分こそが、上述の門島駅の唐笠方にあった「門島踏切」に通じている道だった、という可能性があるようです。

 その場所は現在は草木に覆われてしまっていますが、古い地図を見てみる限り、確かにその場所か線路伝いぐらいしか、かつてあった「門島踏切」に続く道は無いと思われます。(要検証)


 また、上述のとおり、門島踏切を渡って写真左側(東側)にある山中の小道(山道)を九十九折り(つづらおり)に上がって行くと、長野県道1号飯田富山佐久間線を経て泰阜村役場のほうへ通じていたようです。

 その山中の小道(山道)は、1885年(明治18年)に作成された古い絵地図にも描写されていて、泰阜ダムと泰阜発電所、門島駅が完成後の写真(撮影時期不明)にも、その山中の小道ははっきりと写っています。

 そのほか、1885年(明治18年)に作成された古い絵地図には、上の写真の諏訪神社も描かれ、現在の櫓橋が架かっている場所あたりには「渡シ」と書かれていましたので、かつては渡し舟があったものと思われます。





泰阜ダムと泰阜発電所
泰阜ダム

 上の写真は、泰阜ダム(やすおかダム)を南東側から撮影したものです。

 泰阜ダムは、飯田線の門島駅の北西約600mあたりの天竜川に建設されたダムで、門島駅が開業(当時は三信鉄道)した2ヵ月後の1932年(昭和7年)12月に着工され、1936年(昭和11年)1月に竣工しています。

 泰阜ダムは、高さが50m、堤頂長が143mの、水力発電用の重力式コンクリートダムで、同ダムの約400m南方にある水力発電所の泰阜発電所に送水し、最大5万2,500キロワットの電力を発生するそうで、現在は中部電力株式会社が管理・運営しています。

 戦前の日本の国力で、このような巨大なダムが建設されたことに少々驚きを感じるぐらいです。

 建設当時は、現在のようなブルドーザー、ショベルカー、ダンプカーといった重機は無く、ツルハシ、スコップ、モッコなどを使用した専ら人力に頼った建設工事だったようで、「暴れ天竜」とよばれた天竜川の洪水や土砂崩れにも悩まされたそうです。

 現在の泰阜ダムは堆砂対策が課題となっていて、過去には、放流する水に含まれた堆砂の砂粒がダム表面のコンクリートを削り取っていて、コンクリートの厚みが平均して20センチ、最大2.6mも摩耗していた箇所があったそうです。

 摩耗したダム表面に新たなコンクリートを打設する補修工事は、1970年(昭和45年)に完了したそうです。


 この泰阜ダムが完成したことにより、この地域の運輸と経済、人々の生活を伝統的に支えてきた天竜川の水運と筏下りによる木材運搬は消滅することとなったようです。

 そのようなこともあり、当時のこの地域の天竜川沿いに鉄道を敷設することは、当時の人々にとって非常に重要なこととなっていたであろうことがわかります。


 なお、写真右側に見える道路は、おそらく、泰阜ダム建設時に造られ再整備された「竜東線」とよばれた街道だろうと、個人的には推測しています。

 竜東線(長野県道満島飯田線。龍東線や平岡線とも記述される)は、かつて平岡~為栗~我科~温田~田本~門島~唐笠~金野~千代を結んで天竜川左岸(東側)に沿って通じていた人と馬が通れる程度の街道で、飯田線の前身である三信鉄道線が敷設された際も、竜東線が分断されて不通にならないように再整備されたりして残された、と聞いています。

 ですので、当時の三信鉄道の門島駅開業後に建設が始まった泰阜ダムの建設時においても、人の徒歩での交通を分断しないように、竜東線は再整備されるなどして残され、同線の天竜峡~平岡間が人の徒歩での行き来ができなくなるようなことはなかったはず、と個人的には推測しています。

 ただ、門島駅開業(1932年/昭和7年10月)以前および泰阜ダム着工(1932年/昭和7年12月)以前にあった本来(オリジナル)の竜東線は、現在の写真右側に見える道路にそのまま転用されたかどうかは現時点では私ではわかっておらず、本来の竜東線はもっと低いところの天竜川沿いを通っていた可能性も有ります。

 泰阜ダムの建設により、同ダム以北の天竜川は水位が上昇しますので、本来の竜東線がダム湖に沈んでしまう高度を通っていた場合、竜東線は泰阜ダム建設時に高度を上げて再整備されて造り直された可能性があります。

 古い資料には、泰阜ダムの建設により、竜東線(平岡線ともよばれた)は水没危険区域となったり、一部は埋没してしまった、という記述があるようです。

 なお、泰阜ダムが完成した1936年(昭和11年)1月には、すでに三信鉄道の天竜峡~温田間は開通、開業(1935年/昭和10年11月15日)していましたので、その頃には竜東線を徒歩で利用する人達は激減していたようなので、泰阜ダム完成時には、すでに竜東線は廃道同様になっていた可能性もありえます。




泰阜発電所

 上の写真は、泰阜発電所の様子を北側から撮影したもので、写真右側(西側)のほうには天竜川が流れているのが見えています。

 泰阜発電所は、飯田線の門島駅の北西約200mあたりのところにあり、門島駅(当時は三信鉄道)が開業する8ヵ月前の1932年(昭和7年)2月に着工、1936年(昭和11年)1月に1号機の運転を開始、同年4月に2~4号機が運転開始となっています。

 現在は中部電力株式会社が所有、運営しています。


 泰阜発電所と泰阜ダムの所有者・運営者の変遷は複雑です。

 まず、福澤諭吉の婿養子にあたる人物で実業家の福澤桃介が1926年(大正15年)3月に設立した天竜川電力株式会社により建設が計画されます。

 しかし、天竜川電力株式会社は、泰阜発電所の建設準備中の1931年(昭和6年)11月に、両社の合意により矢作水力株式会社に吸収合併されています。

 その後は、矢作水力株式会社が建設工事を着工、完成させ運転を開始しましたが、戦時色が濃くなってきた1938年(昭和13年)3月に国家総力戦体制の構築を目指す日本政府により電力管理法が成立し、太平洋戦争が始まる直前の1941年(昭和16年)8月30日に交付された配電統制令により、国策会社の日本発送電株式会社に譲渡されてしまいます。

 当時の電力管理法案に対しては、当然のことながら電力業界は猛反発したそうですが、当時大きな権力を握っていた軍部により反対意見は抑圧されていったのだそうです。

 そして、戦後は、ポツダム宣言受諾に伴い発せられた命令である「ポツダム政令」の電気事業再編成令と公益事業令が1950年(昭和25年)11月24日に公布され、1951年(昭和26年)5月1日に設立された中部電力株式会社が所有者となっています。


 なお、天竜川電力株式会社の天竜川の水利権許可には、「天竜川の水上交通の代替交通機関として鉄道を敷設すること」という条件が課されていたそうです。

 そのため、天竜川電力は、1922年(大正11年)3月に、長野県の泰阜村から下川路村(現在の飯田市川路)に至る軽便鉄道敷設免許を申請したのだそうです。

 そして、同時期に、「三信鉄道」が企画され、当時の鳳来寺鉄道の終点となっていた三河川合駅から、伊那電気鉄道の終点となっていた天竜峡駅までを結ぶ鉄道免許の申請が、1926年(大正15年)1月に提出されたそうです。

 この2つの鉄道敷設計画は、泰阜村から下川路村までの区間が重複していたこともあり、長野県知事の斡旋により、天竜川電力が軽便鉄道敷設計画を取りやめ、鉄道敷設に充てる予定だった資金を三信鉄道への出資に充てることとなったそうです。

 そして、1927年(昭和2年)7月19日付けで鉄道敷設の免許が交付されたことを受け、同年12月20日に三信鉄道株式会社が発足し、当初の資本金1000万円のうち25パーセントにあたる250万円を天竜川電力が出資したそうです。

 当時の250万円を現在の貨幣価値に換算すると、おおむね約16億円程度となるようです。

 その後、三信鉄道は1929年(昭和4年)8月に鉄道敷設工事に着手、急峻な地形による難工事を成し遂げ、1937年(昭和12年)8月20日に天竜峡駅から三河川合駅までの全線を開通、開業させたのです。


 このように、門島駅をめぐる歴史を振り返ると、今はひっそりとした駅ですが、天竜川の電源開発と三信鉄道(飯田線)の歴史に大きく関わっていることがわかります。



泰阜発電所の建物と巨大な水圧鉄管を南側から見る

 上の写真は、泰阜発電所の様子を南側から撮影したものです。

 泰阜ダムは、写真右側に見える橋の道路を、写真奥方向(北方向)へ約400m進んでいくと左側にあります。

 上の写真には写っていませんが、写真右側のほうに巨大なサージタンクが4つそびえ立っています。

 泰阜発電所には、発電機が1号機から4号機までの4台があり、写真に見える巨大なパイプ「水圧鉄管」(内径 4000~3510mm)が4本設置されています。

 
 写真左側に見える建物の上部には、「泰阜 やすおか」と書かれたプレートが取り付けられています。

 この泰阜発電所の建物は、外観のデザインを見る限り、戦前のものではないかと思われ、当発電所竣工当時(1936年/昭和11年)の歴史ある建物ではないかと思われます。


 なお、帰宅後に調べてわかったのですが、門島駅西方の天竜川に架かる赤色のワーレントラス橋となっている「櫓橋」からは、北方に見える泰阜ダムと泰阜発電所、それに天竜川を1枚の写真におさめることができるようで、泰阜ダムと泰阜発電所を撮影したい場合は、櫓橋の橋上からの撮影がおススメです。





巨大なサージタンクと飯田線の門島陸橋

 この巨大なサージタンクを実際に目の前にして、きっと誰しもが思うことが、「…すごい。」という一言だと思います。

 もちろん、日々このような人工的な巨大な施設を目の前にして働いている方々などにとっては、さして驚くほどのものではないかもしれません。

 そうはいっても、自然豊かなローカルな風景が多いことで知られる飯田線沿線を訪れるにあたって、線路のすぐ脇に、このような巨大な人工物がそびえ立っている風景は、豊橋駅から各駅を訪問してきて以来、思い出すことができないほど、ある種の衝撃的な風景に感じられました。


 サージタンクは、発電所の発電機に流れる水量を調節するための施設で、その下部に接続される巨大な管は、水を通す水圧鉄管なのだそうです。

 この泰阜発電所のサージタンクは、口径が11m、高さは27.8mもあるそうです。

 そして、サージタンクの手前側下方を通る飯田線の橋梁は「門島陸橋」(長さ 54m)で、橋梁ではなく「陸橋」と呼ばれるのは、おそらくこの橋梁が自然の川や沢などの上方を通るものではなく、人工的に造られた泰阜発電所の水圧鉄管の構造物の上方に設けられたものだから、だと思われます。


 ここから先の飯田駅、辰野駅を目指すにあたり、まだまだ驚くような風景は待ち受けていることとは思いますが、この場所の風景は、飯田線の風景の中でも、きっと記憶に焼き付く、そんな光景だと思いました。


巨大なサージタンクと水圧鉄管、飯田線の門島陸橋

 私は、上の写真の光景を見て、あるひとつの疑問点が解決したような気がしました。

 それは、以下のように私が個人的に感じていた疑問点です。


 門島駅は泰阜ダム建設の資材運搬のために開設された、と説明されているのですが、確かに泰阜ダムは門島駅が開業(当時は三信鉄道)した2ヵ月後の1932年(昭和7年)12月に着工されています。

 しかし、水力発電用の泰阜ダムの付帯施設として欠かすことのできない泰阜発電所は、門島駅(当時は三信鉄道)が開業する8ヵ月前の1932年(昭和7年)2月に着工されています。

 「あれ? 泰阜発電所を建設するなら、泰阜ダム同様に門島駅が開業した後に着工したほうが、建設資材の鉄道輸送ができてメリットがあるのではないか?」

 そう思っていたのですが、「まあ、いいか。別に発電所が先に着工されることもあるだろうし。」と、漠然と理解するようになりました。


 ところがです。 上の写真の風景を見て「あれ…もしかしたら!?」と思うようになりました。

 勘のいい方は、私が何を言いたいのか、おそらくお気づきになられたのではないでしょうか?


 そうなんです。

 泰阜発電所に必要な、サージタンクとそれに取り付けられる水圧鉄管を先に設置して工事を完了しない限り、飯田線(かつての三信鉄道線)の門島陸橋は架けられない!ということにならないでしょうか?

 写真に見える飯田線の門島陸橋を先に設置してしまうと、サージタンクと水圧鉄管の設置工事は門島陸橋が邪魔で仕方がない、極端に言えば、門島陸橋が設置された後ではサージタンクと水圧鉄管は建設工事ができない、ということになるのではないでしょうか?

 ということで、私は個人的には、泰阜発電所の建設を一番最初に着工し、サージタンクと水圧鉄管の設置完了後に三信鉄道線の門島陸橋を設置して天竜峡駅~門島駅間を開業し、門島駅が開業したら、いよいよ泰阜ダムの建設に着工だ、と、当時の関係者たちが建設スケジュールを決めていたのではないか、と推測しています。

 これらは、あくまで私の勝手な邪推にしか過ぎないのかもしれませんが、このことは、今後も機会があれば調べていきたいと思います。


巨大なサージタンクと飯田線の門島陸橋

 自然の美しい山中に異彩を放ってそびえるこの巨大なサージタンクは、飯田線を走る列車の撮影ポイントとしても知られていて、これまで発行されてきた飯田線の各種書籍でも、この場所にて撮影された写真をよく目にします。

 私自身も、いつかまたこの場所で、飯田線の列車が元気に駆け抜けていく姿を撮影してみたいものです。

 この場所は、鉄道ファンをそういった気持ちにさせる、人の心を惹きつけるパワーのある場所ともなっています。


 以上、自然があふれ人里離れた「秘境駅」とはまた異なる趣きの、電源開発の歴史をもった門島駅の様子をお伝えいたしました☆

 次の駅は、天竜川を観光舟で下ることで有名な「天竜ライン下り」の舟着場「唐笠港」の最寄り駅となっている「唐笠駅」(からかさえき)です。





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