バンダイ「輝艦大全シリーズ」 アンドロメダ級と主力戦艦ドレッドノート級 | ||
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秋葉原 ホビー&カルチャー探訪記録 | ||
★秋葉原訪問日~2017年6月3日(土) | ||
AKIHABARA EXPLORING REPORT | ||
バンダイ★「輝艦大全」シリーズ♪ | ||
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バンダイ「輝艦大全」シリーズ 「バンダイ」の完成品フィギュアブランド「魂ネイションズ」から発売される、「宇宙戦艦ヤマト」の「輝艦大全」シリーズです♪ 「輝艦大全」シリーズは、大人の艦隊コレクションをテーマに、「精密な造形」、「重厚感のある塗装」、「光による演出」をコンセプトに立体化したシリーズなのだそうです。 これらの写真は、秋葉原の「魂ネイションズ(TAMASHII NATIONS) AKIBAショールーム」にて展示されていたものを撮影したものです。 2017.06.03現在 |
地球連邦アンドロメダ級一番艦 AAA-1 アンドロメダ(戦艦型) |
地球連邦アンドロメダ級二番艦 AAA-2 アルデバラン(戦艦型) |
地球連邦アンドロメダ級三番艦 AAA-3 アポロノーム(空母型) |
地球連邦アンドロメダ級四番艦 AAA-4 アキレス(戦艦型) |
地球連邦アンドロメダ級五番艦 AAA-5 アンタレス(空母型) |
地球連邦主力戦艦 ドレッドノート級 |
第56回静岡ホビーショーにて展示された3mのアンドロメダ | ||
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U.N.C.F.AAA-0001-2202 Andromeda★PHOTO♪ | ||
2017年5月11日(木)~14日(日)まで静岡市にある「ツインメッセ静岡」にて開催された静岡ホビーショーの「バンダイ」ブースにて展示されていた、3m級のアンドロメダの模型です♪ 現地では気づきませんでしたが、どうやら艦橋内部まで作りこまれていたようです。 このアンドロメダは、2017年2月25日から劇場公開が始まった「宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち」に登場する地球連邦航宙艦隊の総旗艦「アンドロメダ」(アンドロメダ級一番艦)で、艦種は「前衛武装宇宙艦」、識別番号は「U.N.C.F.AAA-0001-2202」となっています。 |
「宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち」では、この「アンドロメダ級一番艦」である「アンドロメダ」のほかに、以下の二番艦~五番艦も登場します。 【前衛武装宇宙艦 アンドロメダ級】 ・AAA-1(一番艦)「アンドロメダ」(戦艦型) ・AAA-2(二番艦)「アルデバラン」(戦艦型) ・AAA-3(三番艦)「アポロノーム」(空母型) ・AAA-4(四番艦)「アキレス」(戦艦型) ・AAA-5(五番艦)「アンタレス」(空母型) |
宇宙戦艦ヤマトにちなんで~プチ付録『日本海軍の戦艦』 |
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【日本海軍 戦艦 大和】~昭和19年(1944年)秋期 battleship YAMATO |
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大和(やまと)は、大日本帝国海軍が建造した史上最大の戦艦、大和型戦艦の一番艦。 太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直後の1941年12月に就役し、やがて連合艦隊旗艦となった。この任は司令部設備に改良が施された同型艦 武蔵が就役(1942年8月)するまで継続された。 1945年4月7日、天一号作戦において米軍機動部隊の延べ1,000機以上の航空機による猛攻撃を受け(魚雷14本、大型爆弾3発、小型爆弾多数)、坊ノ岬沖で撃沈された。 当時の日本の最高技術を結集し建造され、戦艦として史上最大の排水量に史上最大の46cm主砲3基9門を備え、防御面でも重要区画(バイタルパート)では対46cm砲防御を施した、桁外れの戦艦であった。 【引用参考参照『Wikipedia』。敬称略】 |
【日本海軍 戦艦 長門】~昭和19年時(1944年時) battleship NAGATO |
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長門(ながと)は旧長門国を名前の由来に持つ日本海軍の戦艦で、長門型戦艦の1番艦。 完成当時の1920年では世界最初であり、かつ最大口径の16.1インチ(当時日本はメートル法を採用していたため実口径は41cmちょうど)主砲と、当時の戦艦の中では非常に高速である26.5ノットの機動力を持つ高速戦艦で、世界の軍事史や軍艦史にも大きな影響を与えている。 2番艦の「陸奥」と共にその高性能故に、各国海軍から注目され、当時大艦巨砲主義に染まっていた列強海軍の熾烈な建艦競争に、ワシントン海軍軍縮条約による一定の歯止めを与えるきっかけとなったのも本艦であった。 完成後に連合艦隊旗艦となり、第二次世界大戦後に有名になった戦艦「大和」が戦中は存在そのものが極秘だったこともあり、戦前と戦中には長門・陸奥こそが日本海軍を代表する戦艦として、国民から親しまれた。 太平洋戦争開戦時には戦艦「大和」が完成前で、連合艦隊旗艦として連合艦隊司令長官 山本五十六大将が座乗していた。 太平洋戦争中は「大和」「武蔵」に次ぐ主力艦として温存され、終戦まで稼動可能な状態で生き残った唯一の日本戦艦である。 日本軍の降伏後、長門は1945年8月30日にアメリカ軍に接収される。 アメリカ軍による詳細な調査の後武装解除され、1946年3月18日にクロスロード作戦(米軍の核実験)に標的艦として参加するためマーシャル諸島のビキニ環礁へ移動する。 7月25日の第二実験(BAKER、水中爆発)では爆心地から900-1000mの位置にあり、右舷側に約5度の傾斜を生じた。それでも長門は海上に浮かんでいた。 しかし、4日後の7月29日の朝、原爆実験の関係者が長門のいた海面を見てみると、既に長門の姿は海上にはなかった。7月28日深夜から29日未明にかけての夜間に、艦内への浸水によって誰にも見取られる事なく静かに転覆し沈没したものと見られる。 現在、長門沈没地点はダイビングスポットとしてこの地の貴重な観光資源となっている。 沈没状態とはいえ、ビッグ7の中で一応形が残っているのは長門だけである。現状は上下逆さまで沈没しており、艦橋部分は折れている。 【引用参考参照『Wikipedia』。敬称略】 |
【日本海軍 戦艦 金剛】~昭和17年(1942年)夏期 battleship KONGO |
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金剛(こんごう)は、日本海軍が初の超弩級巡洋戦艦として発注した金剛型の1番艦。 |
【日本海軍 戦艦 榛名】~昭和19年(1944年)秋期 battleship HARUNA |
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榛名 (はるな)は、日本海軍の戦艦で、金剛型戦艦の3番艦。 榛名の艦名は、群馬県にある上毛三山の1つ、榛名山に由来する。戦艦にも拘らず旧国名ではなく山岳名を持つ理由は、本艦を含む金剛級は当初「装甲巡洋艦」として計画されたため、一等巡洋艦の命名慣例に従ったものである。 1941年12月4日、馬公を拠点に出撃し、陸軍の馬来上陸作戦支援を皮切りに、比島上陸作戦・蘭印(オランダ領東インド=現インドネシア)攻略作戦などを支援した。この間、シンガポールを出撃した英戦艦プリンス・オブ・ウェールズ・同巡洋戦艦レパルスを中心とする英国東洋艦隊を迎撃すべく邂逅を図るも果たせず、同艦隊が日本軍航空隊に壊滅させられるという一幕もあった(マレー沖海戦)。 1942年2月には真珠湾攻撃などを終えて回航された南雲機動部隊と合流、同型艦4隻が揃ってインド洋作戦に従事、3月1日にジャワ島近海でオーストラリア方面へ遁走する米駆逐艦エドソールを僚艦と共に砲撃により撃沈、3月7日にはクリスマス島砲撃を行った。 同年6月5日ミッドウェイ海戦では、霧島と共に機動部隊の護衛に当たるが味方空母部隊は全滅、奮戦のすえ攻撃を受け炎上する空母飛龍の乗員を救助するが、榛名自身も至近弾を受けて損傷した。 同年9月、激戦化したガダルカナル方面の戦闘に参加するため前進部隊本体に編入され、トラック島へと本拠を移した。苦境に立った陸軍の要請により10月13日、金剛と共にヘンダーソン飛行場を砲撃で一時使用不能にした。 1944年6月19日マリアナ沖海戦に参加、戦艦大和など前衛部隊の一艦として出撃するも、主力空母部隊は大損害を受け敗退、榛名も直撃弾2発を受けて損傷する。この損傷は意外に深手で、修理完了後も全速力を出すと艦尾が振動するなど「榛名」の戦力発揮に影響を与えた。損傷修理と併せて舷窓閉塞など不沈工事や対空火器の大幅増強が行われている。 同年10月フィリピン・レイテ島に上陸した米軍に対し発令された捷一号作戦に参加、本艦は栗田中将指揮の第一遊撃部隊の一艦として上陸中の米陸軍部隊を砲撃すべく進撃を続け、25日サマール島沖にて発見したスプレイグ少将指揮下の第77任務部隊との交戦、いわゆるサマール島沖海戦では米艦隊を追撃したが、前述の艦尾振動の影響により「金剛」ほどの戦果を上げることができなかった。混乱する戦局の中で栗田中将より撤退命令が下され、榛名も帰途スル海(フィリピン西方海上)において米軍の追撃により至近弾を受け損傷する。このため内地に帰投、呉にて修理を行った。 最期は防空砲台となるべく呉の対岸・江田島小用沖に転錨。1945年7月24日と28日の呉軍港空襲により今度はマッケーン中将率いる第38任務部隊による大規模な攻撃を受け、同様に燃料も無く為す術の無い状態の航空戦艦伊勢・日向や航空母艦天城らと共に停泊していた榛名は、2番砲塔の砲側照準による3式弾射撃などによって激しく抵抗を行ったものの20発以上の命中弾を受け浸水、大破着底した。 戦艦榛名は開戦時すでに艦齢26年の老朽艦であるにも拘らず最前線にあって主要海戦の多くに参加しており、しばしば損害を受けた。その姿は、開戦直前に完成して最前線での主要海戦でもほとんど損害を負うことが無く「幸運の空母」とも賞される空母瑞鶴と対照的であるが、この2艦は駆逐艦雪風などと共に「日本海軍の武勲艦」と評されることが多い。 また日本戦艦で最も多くの海戦を生き延び、その終末を解体という形で迎えたことから、諸書には「戦艦榛名は戦後復興のための資材となった」旨の記述が多くみられる。 【引用参考参照『Wikipedia』。敬称略】 |
【日本海軍 航空戦艦 伊勢】~昭和19年(1944年)秋期 battleship-aircraft carrier ISE |
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伊勢(いせ)は大日本帝国海軍の戦艦。伊勢型戦艦の1番艦。 艦名の由来は三重県の旧国名からで、後に海上自衛隊の護衛艦「いせ」に引き継がれた。 当初は扶桑型戦艦の3番艦として建造が予定されていたが、扶桑型に砲力や防御力、運用面等で問題点が生じたため再設計が行われ、準同型艦の伊勢型の一番艦として建造された。 太平洋戦争後半には戦術変更に伴って、姉妹艦の日向と共に後部主砲塔二基を撤去し、艦載機発艦用飛行甲板(但し、発艦限定であり、瑞雲以外の機体を回収することは不可能。)を設け、搭載機数22機という軽空母なみの航空打撃力を持つ航空戦艦へと改装された。 同型艦日向が砲塔爆発事故を起こしたのを機に、1944年に日向と共に航空戦艦に改装されたが、艦載機を搭載することができないまま空母機動部隊に所属し、レイテ沖海戦に参加した。この時の対空戦で第四航空戦隊司令官松田千秋の発案した弾幕射撃が効果を挙げ、航空機多数撃墜(30~70機)を報告している。また巡航速度で移動し、敵艦上爆撃機が降下態勢に入ると同時に思い切り舵を切るという爆弾回避術も大いに効果をあげた。この機動を急降下爆撃を行う艦爆側から見れば、目標が後逸していくので見失ってしまう。さらに艦爆は一度降下に入ると大きな目標修正ができず、重量物である爆弾を投下しない限り再び上昇できなかった。これらから艦爆は狙いが逸れたまま爆弾を投下して上昇するしかなかった。 大戦末期、日本国内では石油・ゴムなどの資源が枯渇した。そこで本艦は連合軍制海権下の南シナ海などを強行突破して資源を輸送する「北号作戦」に参加する。この作戦では輸送部隊に接近しようとした潜水艦を主砲で砲撃するなど、半ば奇想天外ともとれるような戦術を駆使しながらも、奇跡的に無傷で呉に帰還を果たした。 この後の伊勢は燃料不足のため「呉鎮守府第1予備艦(浮き砲台)」に指定され、燃料不足と米軍の機雷封鎖で行動不能な状態のまま呉港外三ツ子島(倉橋島北東、34゚12'N/132゚31'E)海岸付近の海面に停泊していたところを1945年7月28日の呉軍港空襲で米機動部隊の艦載機に攻撃され大破着底し、終戦後引き揚げられてスクラップにされた。 歴代艦長として山口多聞、古賀峯一といった後の著名指揮官も輩出した。 【引用参考参照『Wikipedia』。敬称略】 |