名古屋城と本丸御殿~復元された本丸御殿は豪華絢爛
日本の歴史浪漫・史跡名所ガイド&写真集

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名古屋城と本丸御殿 2019年1月1日現在

 名古屋市中区三の丸の官庁街の北側にそびえ立つ、名古屋の有名史跡のひとつ名古屋城です。

 写真左側から、本丸御殿、小天守、大天守となっています。

 現在の場所にある名古屋城は、1609年(慶長14年)に徳川家康により築城が定められたもので、明治維新となった1871年(明治4年)に廃城となりましたが、1879年(明治12年)12月に山縣有朋が名古屋城と姫路城の城郭の保存を決定し、大天守などは現存し続けました。

 しかし、第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)5月14日に名古屋大空襲により現存していた天守などが消失してしまい、現在の大天守などは戦後の1959年(昭和34年)に鉄筋コンクリ―トで外観復元されたものとなっています。

 また、本丸御殿は、2009年1月から復元工事が開始され、2018年6月8日から一般公開が開始されています。

 名古屋城は、現在では日本100名城に選ばれていて、国の特別史跡に指定されているそうです。




名古屋城の大天守と西南隅櫓

 名古屋城は、明治維新まで徳川御三家のひとつである尾張徳川家の居城として君臨してきました。

 天守台の石垣は、有名な戦国武将 加藤清正が築いたことでも知られています。

 現在は名古屋城全体の整備計画があるそうで、天守閣の木造復元、東北隅櫓、本丸多聞櫓、二之丸御殿および向屋敷や各門、馬出の復元、展示収蔵施設の整備、石垣補修などが計画されているそうです。

 これらの整備計画が実現したあかつきには、姫路城と並ぶ立派な名古屋城の姿が見られることと思います。







地上に置かれていた金シャチ(金鯱)

 周囲には「金シャチ募金」、「寄贈 金シャチ修復一式」と書かれていました。

 名古屋城の金シャチは、名古屋のシンボルとしても著名な存在となっています。

 1937年(昭和12年)には、天守閣の金シャチの鱗(うろこ)58枚が盗難される事件が発生しています。

 また、江戸時代に盗賊の柿木金助(かきのき きんすけ)が、大きな凧(たこ)に自らの体をしばりつけて、名古屋城の大天守にあった金シャチの鱗(うろこ)を盗んだという伝説(作り話)があります。


名古屋城 おみやげ屋

 店舗入り口周辺には、「名古屋おもてなし武将隊」の織田信長、豊臣秀吉などの写真パネルが見えています。




名古屋城 大天守

 手前の工事現場は、名古屋城収蔵施設及び展示施設新築工事となっていたようです。


重要文化財 西南隅櫓(せいなんすみやぐら)

 西南隅櫓は、1612年(慶長17年)頃に建てられた、外観二重、内部三階建ての珍しい形態の櫓なのだそうです。

 未申櫓(ひつじさるやぐら)とも呼ばれたようで、石落しなどが備えられているそうです。

 西南隅櫓は、明治後期から大正期ごろに自然災害で倒壊したそうで、1923年(大正12年)に宮内省により古材を使用して再建され、そのために鬼瓦に菊紋が見られるそうです。




西南隅櫓から東南隅櫓方向を見る

 石垣の斜面が急で、櫓間も距離があって、名古屋城の立派さが伝わってきます。


重要文化財 本丸表二之門

 本丸表二之門(ほんまるおもてにのもん)は、本丸大手の外門で、古名は南二之門となっているそうです。

 本瓦葺の高麗門(こうらいもん)で、軒回りは漆喰塗り込め(しっくいぬりごめ)とされ、柱や扉に金具を打ち付けているそうです。

 本丸表二之門は、現存する数少ない名古屋城創建時の建造物となっているそうです。




重要文化財 本丸表二之門についての説明板

 このような説明文は、ほんとうにありがたい存在です。


本丸御殿の内部の様子

 ここからは本丸御殿の内部の様子です。

 本丸御殿は、明治維新後は国宝となり、精密な実測図面が作成され、ガラス乾板による写真も多数残されていて、それらの豊富な資料により、外観や構造ともに細部まで史実に忠実な復元とすることができたそうです。

 歴史好きな私としては、安土城や駿府城も復元されたら見てみたいのですが、いずれも詳細な資料が無いことが、復元を妨げる一因となっているようです。




玄関・一之間

 金色に輝く下地に虎が描かれています。

 なお、以下に掲載する本丸御殿内部の様子の写真は、実物の一部でしかありませんので、ご興味の有る方は、是非一度現地を訪れて頂くことをおススメします。

 当時の徳川幕府親藩の日常の生活様式とその豪華さを体感することができます。


本丸御殿の復元手法

 本丸御殿の復元には、主要な木材に木曽桧(きそひのき)が使用され、継手(つぎて)・仕口(しくち)により木材を組み立てる伝統工法が採用されているそうです。

 また、障壁画には、狩野派の絵師たちが用いた技法や素材を分析し、復元模写により当初の色彩を再現しているそうです。

 説明板右側には、焼失前の玄関・一之間の写真が掲載されています。




玄関・二之間


玄関・二之間




玄関・二之間


表書院・三之間




表書院・二之間


表書院・一之間

 写真奥のほうの部屋が「表書院・上段之間」になります。




表書院前の廊下

 これだけ多くの部屋と廊下があると、当時の大名の子供達が、歓声をあげて走りまわって鬼ごっごをしたり、かくれんぼをしたりしたのではないかなあ、と、ついつい現地で想像してしまいました。

 しかしながら冷静に考えてみると、おそらく当時の本丸御殿は一部の高貴な大人の人達しか入れなかったであろうから、私が考えるような、母親から「廊下を走りまわってはいけません!」と怒られる子供達の姿を見ることはできなかったものと思われます。


表書院・上段之間の入口




表書院・上段之間


廊下の様子

 ここの廊下へは立ち入ることができなかったようです。




本丸御殿復元の資料

 前述のように、本丸御殿の多数の図面や写真が、第二次世界大戦中に疎開され焼失をまぬがれたために、本丸御殿を細部まで忠実に復元できたことが、説明板に書かれています。

 説明板には、そうした資料としてガラス乾板、昭和実測図(車寄立面図)の写真が掲載されています。


対面所・納戸・次之間




対面所・次之間

 対面所は、藩主と身内や家臣との私的な対面や宴席に使用されたそうです。

 対面所の上段之間、次之間には、四季の風物や名所が多くの人物とともに描かれているそうです。


対面所・上段之間




対面所の二重折上げ小組格天井

 以下に説明文を記載します。

 本丸御殿の天井には、玄関と大廊下に竿縁天井(さおぶちてんじょう)、表書院と対面所には格天井(ごうてんじょう)が使われています。

 格天井は、格縁(ごうぶち)と呼ばれる部材で格子を作り、格子の間に正方形の板を張ったものや、小型の格子を組み入れたもの(小組格天井/こぐみごうてんじょう)、格天井の格縁を「亀の尾(支輪/しりん)」と呼ばれる曲げ物にして折り上げた「折上げ天井」(おりあげてんじょう)があります。

 また、表書院の格縁が素木(しらき)なのに対し、対面所では格縁が黒漆塗(くろうるしぬり)で、天井板には金箔を押しており、上段之間では折上げ天井の中央部分をさらに亀の尾(支輪)を設けて一段折上げた「二重折上げ小組格天井」という豪華な天井となっています。


対面所・上段之間




対面所・上段之間の二重折上げ小組格天井

 とても手の込んだ職人技の光る、豪華な天井となっています。

 なお、表書院・上段之間は「折上げ小組格天井」、玄関・一之間は「竿縁天井」となっているそうです。


鷺之廊下(さぎのろうか)

 名前のとおり、障壁画には鷺(サギ/鳥類)が描かれています。

 将軍や藩主は、ここを通って上洛殿へ向かったそうです。




鷺之廊下の説明板

 鷺之廊下(さぎのろうか)は、対面所と上洛殿を結ぶための廊下で、1634年(寛永11年)に上洛殿とともに増築されたそうです。

 上洛殿(じょうらくでん)は、三代将軍の徳川家光の上洛(じょうらく/京都へ行くこと)にあわせて増築されたのだそうです。

 長押(なげし/壁に水平に取り付けられる装飾材)の上まで障壁画が描かれるのが寛永期の特徴となっているそうです。


上洛殿の廊下の天井

 とても豪華な造りとなっています。




上洛殿・三之間


上洛殿の廊下にある欄間彫刻

 まさに徳川将軍家を魅了するために作られたといえる豪華絢爛な造りとなっています。




上洛殿の廊下にある欄間彫刻


上洛殿の説明板

 説明板によると、上洛殿(じょうらくでん)は、1634年(寛永11年)に三代将軍 徳川家光の上洛にあわせて増築された御成御殿(おなりごてん/将軍を接待するための建物)で、江戸時代は御書院(ごしょいん)・御白書院(おしろしょいん)と呼ばれたそうです。

 上洛殿は、本丸御殿の中で最も格式の高い建物となっていて、天井には板絵、部屋の境には極彩色(ごくさいしき)の彫刻欄間(らんま)がはめ込まれているそうです。




上洛殿・一之間


上洛殿・一之間の天井周囲の様子




上洛殿・二之間

 左奥は一之間になります。


上洛殿・二之間

 写真奥は一之間になります。




上洛殿・三之間

 上洛殿・三之間の天井も、とても豪華な造りとなっています。


梅之間(うめのま)

 写真左側に見える説明板によると、梅之間は、将軍をもてなす役割に任じられた尾張上級家臣の控えの間として使用された部屋で、上洛殿とともに1634年(寛永11年)に増築されたのだそうです。




本丸御殿内の部屋の一部

 写真右奥が上御膳所(かみごぜんしょ)になります。


上御膳所にある囲炉裏(いろり)

 上御膳所(かみごぜんしょ)では、料理の配膳や温め直しが行われたようです。




史実に基づく復元

 名古屋城の本丸御殿は、これまで述べたとおり、在りし日の姿を伝える豊富な資料が残されているために、史実に忠実な復元ができたそうです。

 写真のパネルでは、そうした資料として、昭和初期に作成された「昭和実測図」、江戸後期の名古屋城の状況や築城からの歴史がまとめられた「金城温古録」(きんじょうおんころく)、昭和初期に撮影されたガラス乾板写真が紹介されています。


もう見られない本丸御殿の礎石(そせき)

 パネルの説明によると、本丸御殿の礎石は、1945年(昭和20年)に本丸御殿が焼失したあと、ほぼそのままの位置に残っていたのだそうです。

 本丸御殿を復元するにあたって、礎石とその下の江戸時代以前の遺構を保存するために、上から砂やコンクリートで覆ったのだそうです。

 パネルに掲載された左側の写真は「上空から見た本丸御殿跡」、右側の写真は「400年前から残る礎石」となっています。




下御膳所(しもごぜんしょ)の囲炉裏

 下御膳所も、上御膳所と同様に、料理の配膳や温め直しに使用された場所のようです。


名古屋城の大天守

 写真右側に見える平屋の建物は、おみやげ屋となっていて、非常にバラエティに富んだグッズが売られていて、ついつい私も財布のひもがゆるんでしまいました。






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