登呂遺跡~復元された住居や水田で弥生時代を体感 | ||
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登呂遺跡~復元された住居や水田 2021年2月23日現在 静岡県静岡市駿河区登呂にある、全国的にも有名な登呂遺跡(とろいせき)です。 弥生時代後期の1世紀頃の集落および水田の遺跡で、教科書にも必ず載っていると思われるほど有名な遺跡です。 上の写真は、現在の登呂遺跡の様子を北側から撮影したもので、写真左側から復元された祭殿、住居、高床倉庫が、写真右奥のほうには登呂博物館が見えています。 現在では、復元された1号~4号住居、1号~2号高床倉庫、祭殿、復元水田、居住の跡、旧復元建物などが見られるという、素晴らしい遺跡(施設)となっています。 また、登呂遺跡に隣接して、登呂博物館、芹沢銈介美術館、芹沢銈介の家、北側ガイダンス施設、体験サポート施設、トイレなどもあります。 静岡市に訪れる機会があって、時間に余裕があれば、是非一度立ち寄ってみて、弥生時代の風景を体感してみてください。(駐車場は現時点では有料です) |
登呂遺跡を南側から見る 上の写真は、現在の登呂遺跡の様子を南側から撮影したもので、写真右手前側には、復元された水田が見えています。 私が初めて登呂遺跡を訪問した時は、住居と高床倉庫が1つずつあって(現在はメモリアル広場に旧復元建物として展示)、水田跡も現在のように広大では無く、ほんとにどの街でもある普通の公園ぐらいの規模だった記憶があり、教科書で見てずっと憧れて思い描いていたような歴史のスケールを感じさせるような場所ではなかったために、正直少し落胆してしまった記憶が鮮明によみがえります。 私の中では、それほど登呂遺跡というのは、古代の遺跡として、小さいころから教科書などで見たことがあったため、強烈にすごい遺跡として脳裏に焼き付いていたのだと思います。 しかし、今回、何の事前の下調べも無く、せっかく静岡市内を自動車で通るので、たまには久しぶりに登呂遺跡にでも寄ってみるか、という程度の気持ちで訪れたのですが、私が知っているかつての登呂遺跡ではなく、整備し直され、とても広大で立派な遺跡(施設)となっていたので、とても驚くとともに、すごいなあと感動しました。 これこそ、登呂遺跡というその名に恥じない、立派な遺跡(施設)だと思います。 私のような外部の人間があれこれ言うのは簡単で恐縮なのではありますが、ほんとうによくここまで整備されたなと、関係者の方々には敬意を払わずにはいられません。 天気が良ければ、下の写真のように、この場所から遠くに少しだけ富士山も見えます。 下の写真の右奥のほうに、富士山の頂上部が見えています。 富士山の山頂部からの最後の爆発的噴火は約2300年前といわれていますので、その時にはほぼ現在の形の富士山(新富士火山)となっていたものと思われますので、当時、登呂遺跡に住んでいた弥生時代の人々も、ここから雄大な富士山の姿を眺めていたことでしょう。 |
登呂遺跡の駐車場(有料) 登呂遺跡の南端側には、駐車場があります。 現時点では有料となっています。 写真右奥のほうには、登呂遺跡の南側を通る東名高速道路の高架道が見えています。 自家用車で登呂遺跡を訪れる場合は、通常はここから見学がスタートすることになります。 写真左奥(北東方向)に復元水田が広がっています。 |
「国特別史跡 登呂遺跡」の案内看板 駐車場近くの登呂遺跡南端辺りには、「国特別史跡 登呂遺跡」と書かれた案内看板があります。 案内看板の説明文などによると、登呂遺跡は、今から約1,900年前の弥生時代後期の集落遺跡で、第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)7月10日に、軍事工場建設の際に発見されたそうです。 戦後、1947年(昭和22年)から1950年(昭和25年)に行われた学際的な発掘調査により、弥生時代の人びとの暮らしと米づくりの様子が日本で初めて明らかとなり、1952年(昭和27年)に「特別史跡」に指定されたそうです。 発掘調査では、8万平方メートルを超える水田跡や井戸の跡、竪穴式住居や高床式倉庫の遺構、農耕や狩猟、漁労のための木製道具や火起こしの道具、占いに使用した骨などが出土したそうです。 また、平成11年度(1999年度)から平成15年度(2003年度)に行われた再発掘調査では、遺跡は洪水により2度埋没し、その度に復興された変遷が確認され、また、小区画水田であったことが判り、新たに銅釧(どうくしろ/装飾品で腕輪の一種)や漆が塗られた槽づくりの琴、祭殿跡が出土するなど、集落の様子が細部にわたり明らかになったそうです。 そして、特に最初の洪水前の集落の姿が最も良好に保存されていたため、再整備では、その姿が復元されたそうです。 なお、写真の案内看板を見ると、登呂遺跡には、飛地の水田跡、旧第一森林跡、旧第二森林跡もあるようです。 |
復元された水田域を南側から見る 上の写真は、登呂遺跡の南側にある、復元された水田域を南端側から撮影したものです。 写真左奥のほうに、居住域に復元された祭殿が小さく見えています。 下の写真は、復元された水田域を、上の写真よりもう少し東側から撮影したもので、案内看板が写っています。 |
「水田跡」の案内看板 説明文によると、登呂遺跡の水田跡は、多数の木杭や矢板で補強された畔(あぜ/田と田の間に土を盛り上げたしきり)や水路がその特徴とされてきたそうです。 しかし、それは、集落全体が洪水で埋没した後に復興された水田のかたちだったそうで、当初(復元したムラの時期)は、畔(あぜ)は土盛りだけのものであったことが、再発掘調査で明らかになったそうです。 水田の区画は、一辺が50m~30m程度の大きな区画に造られていますが、さらに小規模の畦(あぜ)で小さな区画に区切られていたそうです。 |
水田跡の土手と水路 水田跡の真ん中あたりで北方向に見える風景を撮影したものです。 私の歩いている部分が土手で、右側にも土手が見えていて、両側の土手の間を水路が通っています。 写真奥のほうには、登呂遺跡の北側部分にある居住域に復元された住居や祭殿が小さく見えています。 |
水田跡の真ん中あたりから南方向を見る 写真奥のほうには、東名高速道路の高架道が見えています。 |
水田跡から復元された住居、高床倉庫、祭殿を見る 約2,000年前に、この場所で、おおむねこのような風景が展開されていたのだと思うと、感慨深いものがあります。 このあたりは、西方約4kmあたりのところに大きな川「安倍川」が近くを流れているという立地から、ひょっとしたら周辺にもいくつかの集落が点在していたのかもしれません。 ちょうど登呂遺跡の弥生時代後期には、東海や北陸を含む西日本各地で広域地域勢力が形成された時代だったようで、このような風景を見ていると、耕作地やその収穫、水利権などをめぐる集落間の争いが発生したであろうことは想像にかたくなく、そうした争いごとを収め、解決し、まとめる能力のあった地域の長などが生まれたのは、時代の必然だったのだと思われます。 そして、やがて日本各地に小さなクニ(国)が誕生し、時代は1世紀中頃の後漢からの「漢委奴國王の金印」の授与、3世紀前半の魏から倭国王とされた邪馬台国「卑弥呼」の時代へと移っていきます。 |
水田跡から復元された住居、高床倉庫、祭殿を見る 写真のいちばん右側に見える建物が、復元された祭殿になります。 |
「登呂遺跡の居住域図」の案内看板 説明文によると、居住域は微高地の上に位置しており、現在復元されている建物は、2度目の大きな洪水で集落が埋没する直前のもので、10軒程度あったと推定されている住居のうち4軒と、高床倉庫2棟、祭殿1棟が復元されているそうです。 微高地と居住域は、さらに西側(メモリアル広場付近)へと広がっていて、そこにも10軒程度の住居があったと推定されているそうです。 説明板の右側には3枚の写真も掲載され、上から4号住居の再発掘調査の様子、2号倉庫の再発掘調査の様子、再発掘調査で見つかった祭殿、となっています。 |
居住域から南方向に見える復元水田と登呂博物館 写真手前側に見える水路は「区画溝」というそうです。 写真右奥のほうに見える建物が登呂博物館になります。 登呂博物館は、1955年(昭和30年)に開館した「静岡考古館」を前身として1972年(昭和47年)に開館したそうです。 現在の建物は、2006年(平成18年)~2011年(平成23年)にかけて行われた登呂遺跡再整備工事に伴って、2010年(平成22年)に全面リニューアルオープンしたのだそうです。 登呂博物館の常設展示室(現時点では有料エリア)では、登呂遺跡から発掘された出土品などが展示されているそうです。 |
復元された祭殿 祭殿は、再発掘調査の時に発見されたそうです。 両側斜めの棟持柱(むなもちばしら)が特徴で、当時の人びとが豊穣の祈りを捧げたのだそうです。 |
居住域に復元された住居、高床倉庫、祭殿 上の写真は、居住域に復元された住居、高床倉庫、祭殿を西方向から撮影したものです。 写真右側に見える水路は「区画溝」というそうで、区画溝の右側(南側)には、写真には写っていませんが、水田(復元)が広がっています。 写真中央に見える床の高い建物が、その名のとおり「高床倉庫」(高床式倉庫ともいう)で、風通しをよくするために床が高く造られ、柱上部にはネズミなどの害を防ぐための「ねずみ返し」が取り付けられ、収穫した稲が保管されたそうです。 「ねずみ返し」は、登呂遺跡で初めて発見された円盤状の板が有名なのだそうです。 |
復元された1号住居の内部の様子 この復元された1号住居は、竪穴住居と同じ構造を持つ平地住居なのだそうです。 水道、トイレ、キッチン、洗面台、冷蔵庫、冷暖房、お風呂、ふとんのある現代の生活に慣れきった自分では、ここで生活してくださいと言われたら、まさしくサバイバル生活そのものになりそうです。 |
登呂遺跡の北側エントランス 登呂遺跡の北側入口になります。 北側ガイダンス施設(写真左側)があって、トイレもあります。 |
メモリアル広場にある旧復元建物 登呂遺跡の西側居住域のメモリアル広場にある旧復元建物です。 写真左側が高床式倉庫、右側が竪穴式住居で、これらはまさしく初めて私が登呂遺跡を訪れた際に見た復元建物だと思います。 ここにある旧復元住居と、東側居住域にある新しい復元住居と外観を見比べると、新しい復元住居のほうが、どことなく可愛らしい造りとなっているような気がします。 |
旧復元建物の竪穴式住居と高床式倉庫 私が教科書で習ったこれらの建物の名称は、それぞれ竪穴式住居と高床式倉庫だったのですが、今では竪穴住居、高床倉庫ともいうそうです。 考古学では、地面を掘り下げて造られた住居を「竪穴住居」(たてあなじゅうきょ)というそうです。 |
メモリアル広場にある「登呂の火起し」の像 現在、登呂遺跡では、弥生体験として火起こし体験や復元した弥生土器による赤米の炊飯を定期的に実施しているそうです。 火起こし体験では、弥生時代に用いられたという舞錐(まいぎり)法の火起こし器を使うそうです。 なお、現時点では新型コロナウイルス感染症拡大防止のために、各種弥生体験を実施していない場合がありますので、興味のある方は事前に必ず登呂博物館に確認してください。 |
「旧復元建物」の案内看板 案内看板に書かれた説明文によると、旧復元建物は、弥生時代の建物の具体的な理解のために、戦後の発掘調査の成果をもとに関野 克(せきのまさる)東大教授により設計図が作成され、全国に先駆けて1951年(昭和26年)に竪穴住居、翌1952年(昭和27年)に高床倉庫が復元されたそうです。 登呂遺跡調査の貴重な成果を、永く人々の記憶にとどめるために、当初の復元のままにメモリアル広場に残されたのだそうです。 案内看板に掲載された写真は、左上から「昭和25年の発掘調査。手前で復元住居のスケッチを描いている関野克」、「復元住居(昭和26年復元)と復元高床倉庫(昭和27年復元)」、「登呂遺跡整備状況 復元住居、高床倉庫(昭和45年)」となっています。 |
旧復元竪穴住居の内部の様子 何年ぶりにこの復元住居の中に入ったことだろうと考えると、とても感慨深いものがあります。 使用されている部材は、さすがに私が初めて登呂遺跡を訪れた当時のモノが全て使用されているわけではないとは思います。 |
静岡市立芹沢銈介美術館 登呂遺跡の「学びの広場」にある静岡市立芹沢銈介美術館です。 この時は、「日本のかたち -芹沢銈介が集めた日本工芸-」の展示が行われていました。 芹沢銈介氏(せりざわ けいすけ/1895年~1984年)は、静岡市生まれで、型絵染の人間国宝で静岡市名誉市民とされた方で、静岡市立芹沢銈介美術館では、同氏の作品約800点や同氏から静岡市に寄贈された世界の工芸コレクション約4,500点が、企画展において順次公開されているそうです。 本館は、1981年(昭和56年)6月に開館したそうです。 |
芹沢銈介氏の家 登呂博物館の南東側にある芹沢銈介氏の家です。 開館日は、現時点では美術館開館日の日曜日と祝日(8月は土曜日も見学可)で、開館時間は午前9時から午後16時30分までで、どなたでも無料で見学できるそうです。 |
芹沢銈介氏の家を東側から見る 芹沢銈介氏の家は、現在は芹沢銈介美術館の附属施設となっていて、同氏の没後、1987年(昭和62年)に芹沢邸のあった東京都蒲田から移築されたのだそうです。 建物は2階建てで、1階は土間と二十畳の板の間、2階は十畳二間の和室となっていて、1階の板の間は主として応接間として使用されたほか、同氏が作品の構想を練ったり、型紙を彫ったりした創作の場でもあったそうです。 室内には、芹沢氏が収集した家具、木工品、染織品、陶磁器、玩具など、世界中の工芸品があふれていて、そうした品々を来訪者の好みに合わせて飾り付けるのも、同氏の大きな楽しみの一つだったそうです。 |
駐車場の北端側にある登呂遺跡の案内看板 登呂遺跡内の各施設などの様子が、わかりやすく図示されています。 |
やよい茶屋 駐車場の北側に隣接して、「やよい茶屋」の看板が取り付けられた古民家風の建物がありましたが、詳細はわかりませんでした。 |