気賀関所~現存する関屋の一部と要害堀の遺構
日本の歴史浪漫・史跡名所ガイド&写真集

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現存する気賀関所の関屋(本番所)の一部 2021年4月10日現在

 上の写真は、天竜浜名湖鉄道(天浜線)の気賀駅の北東へ約400mほど離れた国道362号(旧姫街道)の気賀四ツ角交差点付近にある、本来の江戸時代の17世紀初頭に設置された気賀関所の関屋(本番所。通行人やその荷物などを取り調べた建物)の一部です。

 気賀駅の西方約300mあたりの場所にある現在の気賀関所は、1990年(平成2年)に静岡県浜松市北区細江町に、観光施設として復元されたものになります。

★当サイトの復元された気賀関所の詳細はこちら♪
気賀関所(復元)~
姫街道を往来した人々を厳格に監視

 本物の気賀関所の建物の一部が、この場所に現存しているわけですが、この場所は周囲に民家が建ち並ぶ中庭のような場所となっていますので、近所迷惑にならないように注意が必要です。

 現在当時のものとして残っているのは、関屋(本番所)の西側部分3分の1程度の「下の間」、「勝手の間」の部分なのだそうで、屋根の切妻破風作り、狐格子が見られます。

 気賀関所は、東海道の新居関所の裏番所として、本坂通(通称:姫街道)の往来を監視するのが役割で、江戸幕府により全国に設置された53箇所の関所のうちのひとつで、設置された正確な時期は定まっていないようですが、一般的には慶長6年(1601年)といわれているようです。

 気賀関所は、明治2年(1869年)に関所廃止令が出され、廃止となっています。




現存する気賀関所の案内説明看板
(←写真左)

 説明文などによると、関所の建物は、はじめ茅葺でしたが、寛政元年(1789年)に柿葺・切妻破風作り、狐格子・瓦棟に改築されたそうです。

 その後、嘉永七年(1854年)の大地震で屋根が壊れたため、葺きかえられて、明治時代になって関所が廃止された後も、本番所は1960年(昭和35年)まで残っていたのだそうです。

 しかし、現在は、関屋の大部分は解体されてしまって、一部が残るのみとなっているようです。

 この案内説明看板は、細江町教育委員会によるもののようで、この現存する気賀関屋は、1966年(昭和41年)1月27日に細江町指定建造物(文化財)に指定されているようです。




現存する気賀関所の関屋近くにあった井戸
(←写真左)

 現存する気賀関所の関屋の西側に井戸があったわけですが、これは当時(江戸時代)からあるものなのでしょうか。

 気になったため撮影しましたが、いつからあるのかは不明です。




現存する気賀関所の関屋への入口
(←写真左)


 私は、気賀駅のほうから、すなわち西方向から、現存する気賀関所へと向かったわけですが、正確な行き方はわかっていなかったため、無事たどり着けるか一抹の不安があったのですが、国道362号を気賀四ツ角交差点に向かって東方向へ歩いていくと、同交差点手前側の道路の北側に「気賀関所跡」と書かれた看板が見えてきて、とても安心しました。

 写真右奥のほうに見える信号のある交差点が「気賀四ツ角交差点」になります。

 左の写真の左側の、街路灯と郵便ポストがある辺りに「気賀関所跡←」と書かれた表示板が見えています。

 左下の写真は、案内表示を拡大撮影したもので、写真に見える国道362号が姫街道ということもあってか、可愛らしい姫様の絵が描かれ、「ここが、旧気賀関所で、奥に入ると本番所の屋根の部分が確認できます。」と書かれた案内看板も掲出されていました。







気賀関所の要害堀の遺構~赤池様公園南側から西方向を見る

 要害堀は、関所警備のために造られた堀で、当時の気賀関所の東門から宿場の南に沿って西方向へ掘られていたそうです。

 当時の要害堀は、長さが390間(約700m)で、そのうち2箇所に作場通いの渡り場があって、そこ以外は立入を禁止されていたそうです。

 また、要害堀を通るには、定められた舟提札を持っていなければならず、また、要害堀で魚を釣ったり虫を採るなどの殺生を伴う行為は禁止されていたそうです。

 上の写真のように、現在でも要害堀の遺構が残っていて、往年のその面影を見られることはとても嬉しい限りです。

 上の写真は、当時の気賀関所があった国道362号の気賀四ツ角交差点の西方約100mあたりの、赤池様公園の南側から西方向に見える要害堀の遺構の様子を撮影したものです。

 上述のように、かつては全長約700mの要害堀に渡り場は2箇所しかなかったそうですが、現在では地域住民の方が自由に往来できるように、多くの橋が架橋されています。

 下の写真4枚は、赤池様公園の南側から、天竜浜名湖鉄道(天浜線)の気賀駅の北側に架かる「上堀橋」までに見た要害堀の遺構の様子です。








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堀川運河だったと思われる川

 天竜浜名湖鉄道(天浜線)の気賀駅の北側に架かる「上堀橋」から、西方向に流れる川の様子を撮影したものです。

 赤池様公園から「上堀橋」までは、石垣が見える要害堀跡だったのですが、上堀橋から西方向に見える川は、がらりと様子がかわって、コンクリートとガードレールが設置された全くの現代の川の風景です。

 調べてみると、どうやらこの「上堀橋」辺りから西方向の川の部分は、当時の江戸時代は「堀川運河」だったようです。





赤池様公園
(←写真左)

 旧気賀関所跡のある国道362号から天浜線の気賀駅方面へ向かう途中で、偶然見かけた「赤池様公園」です。

 赤池様の由来は、下に掲載する写真の説明文のとおりとなっています。




「赤池様の由来」が書かれた説明文

 少々、読みにくい状態だったのですが、おそらく以下のように記述されているものと思われます。

 明応七年(一四九八)夏、遠州一帯に大きな地震が起こりました。

 浜名湖が海とつながったといわれる大地震です。

 その時の大津波で浜名湖の南の端(現在の新居町)にあった角避比古神社のお宮も流されてしまいました。

 翌年、浜名湖の北のここ赤池の里に、ご神体がお福面と一緒に流れ着きました。

 里の人々は、近くのお仮屋に大切に奉ったそうです。

 のちに現在の細江神社にお宮を移し、牛頭天王として気賀の里の総氏神としました。

 以来、ここは赤池様と呼ばれ親しまれてきました。

 毎年七月に行われる祇園祭は、神輿に乗ったご神体がこの赤池に巡幸し、神事が行われます。

 そして、神輿は舟に乗せられ、落合河岸より都田川を下り、西気賀まで湖上渡御をするのです。

 平成十年(一九九八)三月吉日 細江神社







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