気賀関所~姫街道を往来した人々を厳格に監視 | ||
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気賀関所(復元) 2017年11月23日現在(※一部の写真は2021年4月10日に撮影) 1990年(平成2年)に静岡県浜松市北区細江町に、観光施設として復元された気賀関所(きがせきしょ)です。 写真中央の立派な建物が「本番所」(ほんばんしょ)で、建物の前には威嚇効果と権威の象徴を示すために槍などが置かれた「三つ道具・槍立」(みつどうぐ・やりたて)が設置されています。 写真右奥のほうに立てられた「三つ道具」は、立ち向かってくる相手の股をはさんで引き倒す「刺股」(さすまた)、逃走する罪人を追って後ろから相手を突き飛ばして転倒させる「突棒」(つくぼう)、和服の袖と体の間に突き入れ、袖を絡めて引き倒す「袖搦」(そでがらみ)となっています。 また、写真左端側には「御制札場」(ごせいさつば)が、右端側には気賀関所の東口にある「冠木門」(かぶきもん)が見えています。 写真の復元された気賀関所は、天竜浜名湖鉄道(天浜線)の気賀駅の西方約300mあたりの場所にありますが、本来の江戸時代の17世紀初頭に設置された気賀関所は、ここから北東方向へ約500mほど離れた国道362号(旧姫街道)の気賀四ツ角交差点付近にありました。 現在では、当時の気賀関所跡に残っているのは、関屋(本番所)の一部となっています。
気賀関所は、東海道の新居関所の裏番所として、本坂通(通称:姫街道)の往来を監視するのが役割で、江戸幕府により全国に設置された53箇所の関所のうちのひとつです。 気賀関所は、東海道の新居関所と同様に重要な関所とされ、各藩の大名の妻や娘の姫君で人質として江戸に住まわされた女性が江戸から逃亡するのを防ぐことと、江戸に武器となる鉄砲が持ち込まれることを厳しく警戒する、いわゆる「入鉄砲に出女」を厳しく取り締まるために、新居関所と同様に通行は厳しく監視され、領主でも通過する際には手形を必要としたそうです。 気賀関所が設置された正確な時期は定まっていないようで3つほどの説があるそうですが、一般的には斉藤家文書説の慶長6年(1601年)が有力視されているようです。 当関所は、旗本の気賀近藤氏が明治維新まで12代にわたり管理したそうで、関所の通常勤務では、役人が番頭2人、平番4~5人が交代で勤務し、ほかに下番1人、足軽2~3人が常駐していたようです。 気賀関所は、明治2年(1869年)に関所廃止令が出され、廃止となっています。 |
気賀関所(復元)を西側から見る 写真左側に見える大きな建物が「本番所」で、中央奥(東方向)に見える門が「冠木門」、中央やや右側に見える建物が「向番所」(むかいばんしょ)、右端手前側に見える小屋のような建物が「下雪隠」(せっちん/トイレ)、右端奥に見える2階に見張所がある「遠見番所」(望楼)になります。 実在した気賀関所も、このような建物の配置だったようで、写真の人びとが歩いている通路が、ちょうど本坂通(通称:姫街道)となっていたようです。 気賀関所は、気賀宿の東の入口に設置され、町の北側は山地や丘陵、南は浜名湖があり、東は当時は橋が架かっていなかった都田川、井伊谷川が流れていて、さらに関所の東門から宿場の南に沿って「要害堀」が掘られていて、往来する人びとが集中しやすい場所に関所があったようです。 江戸時代からあった気賀関所跡の本番所は、1966年(昭和41年)に細江町指定文化財(建造物)に指定され、現在では本番所の関屋の一部のみが現存しています。 当時は、気賀関所周辺の計68ヶ村が「要害村」に指定され、関所破りを防ぐために、浜名湖を船で渡ったり、山中を通り抜けようとする者がいないかの監視を命じられていたそうです。 要害村では、旅行者を1晩泊めてもいいが、2泊する者がいたら報告せよ、手形を持たない女や鉄砲を見つけたら、その場に留め置いて通報すれば褒美(ほうび)を与える、舟に旅人を乗せてはならない、などの命令が出されていたそうです。 また、気賀関所は新居関所(今切関所)と連携して、浜名湖を渡る舟を北と南から監視し、金指の番所と連携して両関所間の山道を抜けようとする「横越し」を取り締まったそうです。 |
気賀関所(復元)を東側から見る 写真に見える門は、気賀関所の東口にある「冠木門」(かぶきもん)で、写真奥のほうに見える門は同関所の西口にある「町木戸門」(まちきどもん)です。 冠木門は、毎日明け六つ(午前6時)に開門され、暮れ六つ(午後6時)に閉門されたそうです。 また、写真右側には「気賀関所 着替え処・茶処」の建物があって、侍、若殿、旅姿、町娘、腰元、忍者などの時代衣装の着替え体験ができるようです。 江戸時代に関所を通る際は、関所の門が近づいて見えてくると、通行人の人々は、特に女性は一抹の緊張を覚えたのではないでしょうか。 しかしながら、現実には、関所もすべての人の往来を完璧には監視することはできなかったようです。 享保15年(1730年)には、現在の三重県伊勢市にある伊勢神宮にお参りする「お蔭参り」(おかげまいり)が流行したそうで、都田村(静岡県引佐郡)では、女中たちが無断で仕事を勝手に抜け出してまで伊勢神宮参拝を目指す「抜け参り」が多かったため、気賀関所の命令を受けて見張人を街道沿いの山に毎日だしたそうですが、それでも「抜け参り」は絶えなかったのだそうです。 伊勢神宮へ参詣する「お蔭参り」は、当時は大金を持っていなくても、信心の旅ということで沿道の施しを受けることがあったり、子供や奉公人が伊勢神宮参詣の旅をしたいと申し出た場合には、親や主人はこれを止めてはいけないというような風潮があったそうで、江戸時代の庶民の移動には厳しい制限があったといっても、伊勢神宮参詣の名目で通行手形さえ発行してもらえれば、実質的にはどの道を通ってどこへ旅をしてもあまり問題はなかったそうです。 そのような伊勢神宮参詣への当時の考え方もあってか、気賀関所では、お蔭参りの流行中には、関所破りをほとんど黙認し、お蔭参りが下火になってから「お蔭参りの人々の関所破りに加担した」として周辺の村々に対して「叱り」などの軽い処罰を下していたそうですが、これは表面的な措置で、お蔭参りの大規模な関所破りに関しては、関所ではほとんど手に負えない状態だったといわれています。(詳細はWikipedia参照) 幕末には、関所周辺の住民に金銭を渡して、関所破りの先導役を依頼する女性も現れるようになったそうです。 また、1855年(安政2年)には、幕末の尊王攘夷派の志士で明治維新の火付け役となったことで知られる清河八郎(きよかわ はちろう/1830年~1863年)が、通行手形を持たない母親と旅している時に、三ヶ日辺りにて舟主に金銭を支払って舟を雇い、夜中に、おそらく現在の東名高速道路浜名湖サービスエリアがあるあたりから、浜名湖対岸の呉松村(現在の浜松市西区呉松町。浜名湖オルゴールミュージアムがあるあたり)まで舟に乗ってわたり、気賀関所をかわしたという記録が、清河八郎本人が書き残した「西遊草」に載っているそうです。
関所破りの罪は重く、捕縛された場合には磔または獄門という決まりではあったそうですが、実際には江戸時代を通じてそのような刑罰が科された例は少なかったようです。 江戸幕府としては、そもそも関所を設けた第一の目的が「入鉄砲に出女」という、倒幕や謀反に対する警戒が主目的となっていたためで、庶民の関所破り(犯罪者を除く)が直接的に幕府にとって脅威となることはなかったためでもあるとは思います。 箱根関所も有名ですが、現実には、手形を持っていない者は、箱根の宿でいくらかの金銭を支払って関所を抜けるのを手助けしてもらったり、関所を迂回するルートを通って行ったそうです。 気賀関所も箱根関所と同様に、関所周辺の住民たちが迂回ルートとその通行方法を熟知していて、おそらく、いくらかの金銭を支払えば関所の迂回を案内してくれる先導役や舟主が存在していたようです。 なお、気賀関所の北側には、姫街道(本坂通)を迂回するように「犬くぐり道」というものがあったそうです。 これは気賀の村人たちが隣村や自分の田畑へ行く際にもいちいち通行手形が必要な関所を通らなくて済むように、当時の関所を管理していた近藤縫殿助が村人たちからの相談に配慮して造られた道のようで、関所の北側の山すそに沿って粗末な細い道が造られ、途中にむしろを垂らして下を50cmほど開けた簡素な門のようなものが作られ、「これは犬の通り道である」という建前のもとに、地元住民が自由に通行できる道が造られたのだそうです。 犬くぐり道は、一部が現存していて往時を偲ぶことができるそうです。 また、細江神社の北側には、当時のむしろが垂らされた簡素な門が再現されているそうです。 |
本番所内部の様子 (←写真左) 本番所(ほんばんしょ)の部屋の中には、番頭(写真中央奥)と平番(写真左右両側)2人の人形が設置されていて、当時の様子が再現されています。 ここでは、通行人やその荷物などを取り調べたそうです。 部屋の奥のほうには、鉄砲、弓矢、刀などの武器が置かれています。 |
本番所「上の間」の様子 (←写真左) 中央奥に家老、右側に平番の人形が置かれ、当時の様子が再現されています。 部屋の奥のほうには、鎧兜と刀や弓などがあり、「人の一生は重荷を負うて遠き道をゆくが如し いそぐべからず」の文で始まる徳川家康公遺訓が書かれた掛け軸も掲出されています。 そのほか、本番所には「下の間」、身分が高い人が使用した雪隠(せっちん/トイレのこと)もあります。 |
向番所の様子(←写真左) 向番所(むかいばんしょ)の内部の様子です。 向番所は、張番所(はりばんしょ)とも呼ばれ、足軽・中間(ちゅうげん)・門番が張り番をしながら休息にも使用した場所なのだそうです。 内部には牢屋もあり、寒暑の厳しい時や、雨雪などの時に、ここで「女改め」を行ったそうです。 「女改め」(おんなあらため)とは、通行する女性を調べることで、関所の大きな役割のひとつである「出女」を防ぐ目的で実施されていました。 関所の役人が、女手形に記されていること、本人の年齢や容姿・髪型などが一致しているかを入念に改め、特にあやしい女性は体に触れて検査を行ったそうです。 左の写真は、女改めの様子を人形で再現したもので、写真左の女性が調べる側「改め姥」となっています。 「改め姥」は、多くは関所の役人の妻が務めたそうです。 |
遠見番所 遠見番所(とおみばんしょ)を南側から撮影したものです。 その名のとおり、遠くを見張るために建てられたもので、2階建て(二層)構造となっていて、現在の建物は実際に上階にあがることができるようです。 当時の遠見番所の上階には釣鐘が掛けられていて、1階部分には大砲が納められていたそうです。 2021.4.10撮影 |
向番所と下雪隠を南側から見る 写真左側の小屋のような建物が「下雪隠」(せっちん/当時のトイレ)、右側の建物が向番所になります。 2021.4.10撮影 |
御制札場(ごせいさつば) 関所に関するさまざまな決まり事が掲げられていた場所です。 2021.4.10撮影 |
町木戸門 気賀関所の西側にある町木戸門(まちきどもん)です。 かつて、元々の場所の姫街道にあった時は、この門から西側に気賀宿の町並みが広がっていたことになります。 2021.4.10撮影 |
要害堀 現在の気賀関所の南側に復元された要害堀(ようがいぼり)です。 関所警備のために造られた堀で、舟で行き来する人も関所に入ることができるように、木戸が設けられているそうです。 当時の要害堀は、長さが390間(約700m)で、そのうち2箇所に作場通いの渡り場があって、そこ以外は立入を禁止されていたそうです。 要害堀を通るには、定められた舟提札を持っていなければならず、また、要害堀で魚を釣ったり虫を採るなどの殺生を伴う行為は禁止されていたそうです。 当時の要害堀の遺構は、現在でも残っていて、当時の面影を見ることができます。 ★要害堀の遺構の様子はこちらのページへ♪ 気賀関所~現存する関屋の一部と要害堀の遺構 2021.4.10撮影 |
姫様館(ひめさまやかた) 「姫様館」(ひめさまやかた)では、気賀関所の貴重な資料などが展示されています。 施設前には、観光地によくある記念写真用の顔出し看板が設置されています。 顔出し看板のキャラクターは、井伊直虎、南渓和尚、虎松となっています。 |
姫様館の入口 浜松市気賀関所資料館となっています。 以下では、当館内部に展示されていた展示品の一部のみ、ご紹介していますので、ご興味のある方は是非現地を訪ねてみてください。 |
江戸時代に大名などが使用した道具や置物など 行燈(あんどん)、お城の図印籠、弁当箱、家紋入り印籠、高坏、大象に付添う異人(置物?)、貢上大象の図(大皿)、きゅうす、重箱、手鏡、飯櫃などが写っています。 立派なものばかりで、当時の暮らしぶりが目の前に蘇るようです。 |
伝統行事「姫様道中」に使用される姫様の駕籠 「姫様道中」は、細江町において1952年(昭和27年)から続く伝統行事なのだそうで、毎年春に開催され、江戸時代の豪華絢爛な姫様行列を再現し、気賀関所を出発地として約100人の大名行列のほか、姫様や腰元による踊りなどが演じられるそうです。 |
御典医が使用した駕籠(かご) この駕籠は、江戸時代の将軍や大名のお抱えの医者だった御典医(ごてんい)が実際に使用した貴重な駕籠なのだそうです。 |
僧侶が使用した駕籠(かご) この駕籠は、江戸時代の僧侶が実際に使用した駕籠(かご)なのだそうです。 細江町にて毎年春に開催される伝統行事「姫様道中」の第1回目(1952年/昭和27年)から、姫様の駕籠として使用されていたそうですが、現在は底が抜けてしまって使用できなくなったそうです。 |
僧侶が使用した駕籠(かご) 江戸時代に実際に僧侶が使用した駕籠を別角度から撮影したものです。 |
気賀宿の食事(朝膳)(←写真左) 享保三年(1718年)に、その時の将軍 徳川吉宗の生母「浄円院」(じょうえんいん)が紀州和歌山から江戸へ向かう道中に気賀宿に一泊したそうで、この写真の「朝膳」は、その時のお付きの役人たちに出されたと考えられる朝膳をレプリカで再現したものなのだそうです。 細江町の姫街道歴史民俗資料館に当時の一行をもてなした料理内容が記載された古文書「浄円院様紀州ヨリ御下向之節触書之写諸書留覚」が残っていて、100人を超す一行に夕食「気賀夕」と翌日の朝食「気賀朝」が提供されたのだそうです。 食材と分量は記されているものの、味付けは醤油、塩、酒、酢と書いてあるだけで量は不明なのだそうです。 記録に残っている朝膳は、大根と干し柿などで作った「いちごもどき」、わさびで食べる「酒ふ」、豆腐と干しゼンマイ、山芋をあえた「平盛」などの7品目だったそうです。 |
気賀宿の食事(夕膳) (←写真左) こちらも同様に、浄円院御一行様が気賀宿に一泊した際に、お付きの役人たちに出されたと考えられる夕膳をレプリカで再現したものです。 記録によると、夕食は、赤貝・ワラサ・キンカン・ウドで作った「なます」、香の物、生シイタケと大根の「すまし汁」、魚の焼き物、干し大根とヨメナの「ひたし物」、ボラやクワイを使用した「こくしょう」、ご飯の7品目だったそうです。 |
「気賀宿の食事」の案内板 浄円院御一行様が気賀宿に一泊した際に、お付きの役人たちに出されたと考えられる朝膳・夕膳を再現したことが説明されています。 |
「気賀宿の食事」を実際に再現したことを報道する新聞 新聞記事の日付けは、2007年(平成19年)3月3日(土)となっています。 浄円院は、享保元年(1716年)に吉宗が将軍に就任した後、享保三年(1718年)5月に和歌山城から江戸城に移ったそうで、記録では4月23日に気賀宿に宿泊したようです。 新聞記事によると、この時は、醤油、塩、酒、酢などの量が不明なものは量を推定して、実際に食事を作ってみて、試食会が行われたそうです。 |
奥浜名湖田園空間博物館総合案内所 気賀関所の西側には、無料の駐車場が整備されていて、その北側には写真の奥浜名湖田園空間博物館総合案内所があります。 |
気賀関所の西側にある駐車場 駐車場の南東側から撮影したもので、写真奥側(北側)に奥浜名湖田園空間博物館総合案内所が見えています。 2021.4.10撮影 |
おんな城主 直虎 大河ドラマ館 (←写真左) 気賀関所を訪れた時は、NHKにて大河ドラマ「おんな城主 直虎」が放送されている時で(2017年1月8日~12月17日)、主人公の井伊直虎ゆかりの地である井伊谷が近いここでは、「みをつくし文化センター」内にて「おんな城主 直虎 大河ドラマ館」が開館されていました。 2017年1月15日(日)から2018年1月14日(日)まで開館していたようで、入場料は有料となっていました。 |
「おんな城主 直虎 大河ドラマ館」の全景 この日は祝日ということもあって、多くの人が訪れてにぎわっていました。 写真右側に、同館のチケット売場が見えています。 |
「おんな城主 直虎 大河ドラマ館」チケット売場 普通入場券は、大人¥600円、小学生・中学生が¥300円となっていました。 |
家康くん・直虎ちゃんデザインのカラーマンホール蓋 「おんな城主 直虎 大河ドラマ館」(みをつくし文化センター)近くの歩道上に設置されていた「家康くん・直虎ちゃん」デザインのカラーマンホール蓋です。 マンホール蓋には、「出世の街 浜松」、「出世大名 家康くん」、「出世法師 直虎ちゃん」と書かれています。 |
天竜浜名湖鉄道の気賀駅 気賀関所の東方約300mあたりのところには、天竜浜名湖鉄道(天浜線)の気賀駅があります。 NHKにて大河ドラマ「おんな城主 直虎」が放送されている時ということもあって、気賀駅には井伊直虎にちなんだ装飾が施されていました。 上の写真は、多くの人でにぎわう気賀駅ホームの様子を、同駅の西側にある「気賀駅南口踏切」から撮影したものです。 |
気賀駅に接近中のTH2108 西気賀駅方面(三ヶ日・新所原方面)から気賀駅に接近中の、TH2108 掛川行です。 気賀駅の西側にある気賀駅南口踏切付近にて撮影 |
家康くんと井伊直虎のラッピング自販機 気賀関所の東側(みをつくし文化センター第2駐車場あたり)にあった、出世大名 家康くんと井伊直虎のラッピング自販機です。 |
遠州鉄道 井伊直虎ラッピングバス (←写真左) みをつくし文化センターの西側にて撮影。 赤色基調で、「井伊直虎」の大きな文字が目立ち、「出世大名 家康くん」と「出世法師 直虎ちゃん」が描かれています。 |
遠州鉄道 井伊直虎ラッピングバス (←写真左) みをつくし文化センターの西側にて撮影したもので、写真奥のほうに大河ドラマ館が見えています。 上の写真のバスとは違うバスになります。(車両ナンバーが異なる) |