清河八郎の気賀関所破り~浜名湖を渡船したルートを考察・推測
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幕末の志士 清河八郎が気賀関所を避けて浜名湖を渡ったルートはどこなのか 2021年4月10日撮影

 江戸時代に姫街道(本坂通)に設置された気賀関所(静岡県浜松市北区細江町)のことをいろいろ調べているうちに、幕末に清河八郎という人物が、舟を雇い、浜名湖を夜間に渡って気賀関所を通るのを回避したという史実を知りました。

 このページでは、清河八郎が浜名湖のどのあたりを実際に渡ったのか、個人的に考察・推察してみました。

 気賀関所の詳細に関しましては、当サイトの以下のページでご紹介させて頂いていますので、ご参照ください。

★当サイトの気賀関所(復元)の詳細はこちら♪
気賀関所(復元)~
姫街道を往来した人々を厳格に監視

 1855年(安政2年)に、幕末の尊王攘夷派の志士で明治維新の火付け役となったことで知られる清河八郎(きよかわ はちろう/1830年~1863年)が、通行手形を持たない母親と旅している時に、三ヶ日辺りにて舟主に金銭を支払って舟を雇い、夜中に浜名湖対岸の呉松村(現在の浜松市西区呉松町。浜名湖オルゴールミュージアムがあるあたり)まで舟に乗ってわたり、気賀関所を通るのをかわしたという記録が、清河八郎本人が書き残した「西遊草」に載っているそうです。

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西遊草 (岩波文庫)~清河八郎(著)

 「西遊草」に記述された記録によると、「これより三里ばかり先に気賀と云う新居の裏番所が有って、女中を改めないと通さない。それ故に多くの人々はここから舟を雇って、入り組んだ海を舟に忍び乗じて呉松という所まで行く」(要約)と書かれているそうです。

 この記述から、通行手形を持たない母親と旅行をしていた清河八郎は、気賀関所をかわす必要があったため、気賀関所の三里手前(約12km)の三ヶ日あたりで舟を雇って、入り組んだ浜名湖の湖上を夜中に舟で渡った、と推測されています。

 気賀関所の三里手前(約12km)というと、ちょうど天竜浜名湖鉄道(天浜線)の三ヶ日駅あたりで、三ヶ日の町中になります。

 江戸時代の三ヶ日の町は、険しい本坂峠を東に越えた姫街道沿いにあり、小池本陣、脇本陣、問屋場、旅籠(はたご。いわゆる旅館)などがあって宿場町として栄えていたようです。

 また、三ヶ日の町は南側が浜名湖(猪鼻湖)に面していて、舟を使用する漁業や海運業、渡船が栄えていたものと思います。

 すなわち、三ヶ日の町には操船に優れたものが多くいて、結果的にそのことは、浜名湖の湖上を渡って陸路の気賀関所を避けて通るという交通手段の確立を助長することになったものと思われます。

 清河八郎が、気賀関所を通るのを避けるために夜間に浜名湖を渡ったというルートが気になった私は、実際に渡ったのではないかというルートを「Google マップ」で目星を付けてみて、現地を訪れてみました。


 まず、上掲の写真をご覧になって頂きまして、考えられるルートのひとつが、現在は東名高速道路の浜名湖橋(全長 603m)が架かっている場所です。

 上の写真は、東名高速道路の浜名湖サービスエリアの南側にある「浜名湖サービスエリア 遊覧船乗り場」から南東方向に見える風景を撮影したものです。

 私が推測したこのルートは、三ヶ日町(旧東浜名)の寸座半島の先から、対岸のかつての呉松村(現在の浜松市西区呉松町)まで、最短距離の約600mで渡船することができます。

 このルートは、最短距離約600mで一気に行けるというメリットがありますが、反面、私が思うのは、最短距離であるからこそ幕府・関所の役人が関所破りのルートとして把握・警戒している可能性も高く、舟は昼間はどこかに隠す必要があったかもしれないですし、幕府の役人に見つかるリスクも高かったのではないでしょうか。

 舟については、ふだん昼間は普通の漁師や運送業を仕事としてやっている村人なら、別に隠さずとも、湖畔に堂々と係留してあったかもしれません。

 なお、ここより北側の天浜線の寸座駅近くから渡船した可能性もありますが、そちら側へは北へ行けば行くほど、気賀関所が近くなる(発見されやすい)というリスクがあります。


 しかしながら、これらの関所を迂回するルートを使うことのリスクについては、究極のところは、幕府の役人あるいは関所の役人たちが、どこまで黙認していたのかというところに尽きるとは思います。

 関所破りの罪は重く、捕縛された場合には磔または獄門という決まりではあったそうですが、実際には江戸時代を通じてそのような刑罰が科された例は少なかったようです。

 江戸幕府としては、そもそも関所を設けた第一の目的が「入鉄砲に出女」という、倒幕や謀反に対する警戒が主目的となっていたためで、庶民の関所破り(犯罪者を除く)が直接的に幕府にとって脅威となることはなかったためでもあるとは思います。

 清河八郎の記録によると、他の関所のケースで、関所近くの宿の主人が、関所の役人と親しい間柄で、宿の主人が役人にいくらかの心付け(お世話になる方にお礼の気持ちとして渡す金銭)を手渡すと、案外容易に通行できたケースもあったようです。

 また、享保15年(1730年)に、現在の三重県伊勢市にある伊勢神宮にお参りする「お蔭参り」(おかげまいり)が流行したそうで、その時には、気賀関所では、お蔭参りの流行中には、関所破りをほとんど黙認し、お蔭参りが下火になってから「お蔭参りの人々の関所破りに加担した」として周辺の村々に対して「叱り」などの軽い処罰を下していたそうですが、これは表面的な措置で、お蔭参りの大規模な関所破りに関しては、関所ではほとんど手に負えない状態だったといわれています。

 結局のところ、関所破りのリスクは、幕府・関所の役人たちがどれだけ本気で関所破りを監視していたか、ということに尽きるわけで、役人達の人数や予算も限られ、夜はぐっすり寝たい、と考えていたのであれば、夜間の警ら・監視は手薄となっていたと思われます。


 さて、次に考えられる清河八郎の渡船のルートが、上の写真の「浜名湖サービスエリア 遊覧船乗り場」あたりから、まっすぐ対岸の呉松町へ向かうルートで、直線距離で約1kmとなります。

 どうしてこのルートが考えられるかというと、この「浜名湖サービスエリア 遊覧船乗り場」があるという事実に着目したわけでして、この遊覧船は現在、地元の現役の漁師の方により運航されているそうで、先祖代々この場所から船を発着させているという実績があるならば、この場所は船着き場として昔から最適な場所だった可能性が高く、だとしたら、ここから清河八郎が渡船していったと考えてもおかしくはないと思います。

 なお、遊覧船は現在、新型コロナウイルス感染拡大防止のために、当面の間は運航休止となっているようです。


 ただし、上述の2つの直線ルートは、対岸の呉松町の上陸地に大草山があって、湖畔に人が安全に歩けるような通路がなければ夜間は危険だったと思われ、特にこの時は清河八郎は母親を連れていたため、ルートとして選択したかどうかは、確信が持てません。

 到着地が呉松町の北側の湖畔であったなら平地となっているようですので、乗船距離は増えますが、そちらへ上陸した可能性はあると思います。







清河八郎が気賀関所を避けて浜名湖を渡ったルートは内浦方面かも

 次に清河八郎が浜名湖を渡ったルートとして考えたのが、上の写真の「浜名湖サービスエリア 遊覧船乗り場」あたりから、写真右上の内浦と呼ばれる入り江に入っていって、呉松村の南側に上陸したルートです。

 入り江となっている内浦の東端側の陸地は平地となっていて、現在では「舘山寺マリーナ」や「富士マリーナ」があって、船舶の乗降にも適した場所であることが証明されています。

 そのため、当時、清河八郎が母親を連れていたことを考えると、乗船距離は伸びますが、内浦の安全な場所で上陸した可能性はとても高いとは思います。






清河八郎が気賀関所を避けて浜名湖を渡ったルートはかなり長距離だったのかも

 最後に、清河八郎が浜名湖を渡ったルートとして考えたのが、現在の天竜浜名湖鉄道(天浜線)の浜名湖佐久米駅があるあたりから、対岸の呉松村へ向かうルートです。

 上の写真は、浜名湖佐久米駅の南西約700mあたりの場所から、南東方向に見える風景を撮影したものです。

 このあたりの場所からなら、気賀関所からもかなり遠く、関所の役人たちもここまでは夜間の監視には来なかっただろう、すなわち乗船時は見つけられにくいという見方です。

 このあたりまで関所の監視の対象地域にすると、さらに広域の浜名湖の湖畔を監視対象としなければ意味がないと思うからです。

 ただし、ここからだと、呉松町は直線距離でも約2.5kmもあり、母親を連れた清河八郎が、そのような長距離を乗船するルートを選んだかどうかは確信が持てません。

 東海道の浜名湖を渡る「今切(いまぎれ)の渡し」は約4km(1707年の宝永地震後)で、その長距離の危険な渡船を嫌った女性が姫街道を通行した、とも言われるように、当時の人々は長距離の乗船を避けたい意思があったものと思われるのも、このルートに確信が持てない理由のひとつです。

 夜間の乗船だったら、なおさら長距離を避けたいのは、船頭も乗客も同じではないでしょうか。

 写真左奥に見える東名高速道路の浜名湖サービスエリア西側の湖畔あたりからなら、乗船した可能性はあると思います。


 以上、清河八郎が気賀関所を避けるために浜名湖を渡ったルートを自分なりに考察・推測してみました。

 私の推測に正解があるのか、無いのか、あるいは地元の方に聞けば答えは簡単に見つかるのか、はたまたすでに解明されているのか、現時点では私ではわかりませんが、歴史の謎を考察してみるのもなかなか楽しいものです。

 いずれにせよ、呉松村まで無事に渡船した清河八郎とその母親は、呉松村を東方向へ抜けて、その昔、徳川家康が武田信玄に大敗した三方ヶ原あたりで姫街道へと復帰したことでしょう。


 しかし、このような舟による関所破りのルートは、たとえ夜間とはいえ、おそらく気賀関所の役人たちも当然歴代にわたってマーク・警戒していたルートだったと思われ、このような行為は幕府の役人達に捕縛される危険性があり、また、夜間とはいえ、他人に見つからないようにおそらく提灯などの灯りは使用しない暗闇での乗船・操船だったと思われ、舟主にとってもとてもリスクがある行為のため、清河八郎が、この時の舟主または船頭に、いくらの金銭を渡したのか、とても興味があるところではあります。

 それとも、漁師の夜の漁に見せかけて、怪しまれないように、提灯などの灯りをつけて、なかば堂々と舟で渡って行ったのでしょうか。


 そのほか、清河八郎は、新潟県と長野県の県境にある「関川の番所」を抜けるため、最寄りの宿に一泊し、夜明け前に宿屋の手引きで関所破りをしていたり、「市之瀬番所」では、関所の脇道を通過したりと、当時の非常にリアルな記録が残っているようです。

 そのような実録が記述された清河八郎の「西遊草」は、幕末の旅行事情を知るうえで貴重な資料となっているそうです。

 なお、清河八郎については、出身地の山形県東田川郡庄内町では、NHKの大河ドラマの主人公にして欲しいという活動もあるそうです。


 箱根関所も、気賀関所や新居関所と並んで有名ですが、現実には、手形を持っていない者は、箱根の宿でいくらかの金銭を支払って関所を抜けるのを手助けしてもらったり、関所を迂回するルートを通って行ったそうです。

 気賀関所も箱根関所と同様に、関所周辺の住民たちが迂回ルートとその通行方法を熟知していて、おそらく、いくらかの金銭を支払えば関所の迂回を案内してくれる先導役や舟主が存在していたようで、清河八郎も三ヶ日辺りで信用できそうな宿や店舗の主人、あるいは地元住民に関所の迂回方法を尋ねたか、予め誰かに教えてもらって気賀関所迂回の先導役を知っていたのかもしれません。






東名高速道路の浜名湖サービスエリア南側にある広場から南東方向に見える美しい風景

 この日は天気の良い土曜日ということもあって、多くの人がこの場所を訪れていました。

 写真左側には、浜名湖サービスエリアのフードコート・レストランの建物が見え、写真中央奥のほうには東名高速道路の浜名湖橋が見えています。

 また、写真中央やや右側に見える小高い山が、清河八郎が渡った浜松市西区呉松町にある大草山で、写真右端側には浜名湖の入り江となっている「内浦」の入り口が見えています。

 写真右下のほうの湖畔には、浜名湖サービスエリア遊覧船乗り場が見えています。

 現在、浜名湖サービスエリアは、一般道からも施設が利用できる出入口「ぷらっとパーク」が整備されていて、一般道から訪れることができる駐車場もあって、気軽に訪問できるようになっています。

 かつての江戸時代には、上述のとおり、清河八郎をはじめ、多くの庶民が気賀関所を通るのを避けるために、このあたりから対岸の呉松村(現在の浜松市西区呉松町)へ舟で渡ったものと思われます。






東名高速道路の浜名湖サービスエリア南側にある広場から南方向に見える風景

 写真には写っていませんが、この広場の右奥のほうには「恋人の聖地」もあるようです。

 写真左下のほうに「浜名湖サービスエリア遊覧船乗り場」が見えています。

 写真の中央奥(南方向)が、ちょうど東海道の新居関所があった方向になります。

 気賀関所は新居関所(今切関所)と連携して、浜名湖を渡る舟を北と南から監視し、金指の番所と連携して両関所間の山道を抜けようとする「横越し」を取り締まったそうですが、なかなか理想どおりに関所を迂回する人々全てを監視することはできなかったようです。

 また、当時は、気賀関所周辺の計68ヶ村が「要害村」に指定され、関所破りを防ぐために、浜名湖を船で渡ったり、山中を通り抜けようとする者がいないかの監視を命じられ、怪しい者が居た場合には通報すれば褒美(ほうび)を与える、舟に旅人を乗せてはならない、などの命令も出されていたそうですが、どうやら関所周辺の住民達は、諸国を往来する庶民達の味方として日々の生活を過ごしていたようです。







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