野田城にあった門~法性寺に現存する本丸の門 | ||
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法性寺に移築された野田城の本丸にあった門 2021年4月18日および23日現在 戦国武将で有名な武田信玄が、その人生において最後の戦いとなったのが「野田城の戦い」(愛知県新城市/元亀4年[1573年]1月~2月16日)です。 その野田城跡を訪問した際に、野田城の戦いの際に武田信玄が狙撃されたと伝えられる場所があることで知られる、同城のすぐ西側にある法性寺(ほっしょうじ)を訪れたところ、かつて野田城にあった門を移築したという門があったので、とても驚きました。 事前に調べて訪れたわけでは無かったので、余計に驚きました。 上の写真の門が、かつて野田城の本丸にあったという門で、この門は、現在は法性寺(ほっしょうじ)の大門(だいもん)となっていて、1719年(享保4年)に野田城から移築したものなのだそうです。 上の写真は、法性寺境内入口の南側から撮影したもので、写真奥(北方向)のほうに法性寺があり、右側(東方向)の崖の上に野田城跡があります。 法性寺(ほっしょうじ)は、天正18年(1590年)の野田城廃城後、この場所にあった「ため池」を道雲寺下に移し、野田領主嶋田家の菩提寺として1658年(万治元年)に建立されたそうです。 法性寺には、明治5年(1872年)まで寺子屋があったそうで、上の写真の雰囲気は、まさに当時の子供達が元気よく門の下をくぐる様子が目に浮かぶかのようです。 この門は、野田城の本丸にあったものが移築されたそうですが、果たして武田信玄との戦いの頃からあるものかどうかは、今のところわかりません。
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野田城から移築された門に関する案内看板 門の近くに設置されていた案内看板です。 「法性寺と大門」と書かれたタイトルで、野田城廃城後に法性寺が建立され、野田城にあった門が、ここに移築されたことが説明されています。 また、法性寺は寺子屋が無くなった後も、豊島保育園として使用されたようで、長年にわたり子育ての拠点であったことも書かれています。 この案内看板は、「平成25年度 新城市地域活動交付金事業」として「千郷西元気ネット」さんにより設置されたようです。 |
(参考)野田城跡の本丸の入口にある門 上の写真は、現在の野田城跡の、二の丸側からの本丸の入口にある木製の簡素な門です。 簡素な門の写真奥のほうに広がる空間が本丸跡になります。 現在、法性寺(ほっしょうじ)境内にある野田城にあったという門は、本丸にあったものを移築したそうですので、もともとはこの場所にあった門なのかもしれません。 |
現存する野田城の門(北側) (←写真左) かつて野田城の本丸にあったという門を北側から撮影したものです。 写真奥(南方向)のほうが、法性寺の入り口になります。 野田城跡は、写真左方向(東側)になります。 |
現存する野田城の門の屋根下部分 (←写真左) 屋根の下側部分を南側から撮影したものです。 歴史研究家の方なら、建造物の構造や状態から、建築された年代をおおよそ推定することはできるのではないでしょうか。 |
現存する野田城の門の屋根下部分 (←写真左) 門の屋根下部分を北東側から撮影したものです。 |
現存する野田城の門の柱部分 (←写真左) 門の柱(南東側)の下部の様子を撮影したものです。 写真右下には、「法性寺」と書かれた石の板が置かれていました。 |
現存する野田城の門 (←写真左) 門の様子を南東側から撮影したものです。 写真では見えませんが、写真奥のほうの少し高いところに、伝信玄公狙撃着弾場所があります。 |
法性寺境内にある供養塔など 写真左側の供養塔には、「野田城戦死病没者慰霊供養塔」と刻まれています。 野田城から移築された門(大門)の北側にあります。 |
法性寺境内にある供養塔など こちらも法性寺境内にあった観音様の供養塔です。 写真右側の観音像の台座下部分には、読みにくいですが「法華萬部供養(?)」、「享保十六年 辛亥九月日」と刻まれているようです。 享保十六年は、西暦1731年で、第8代将軍 徳川吉宗による「享保の改革」が行われていた時代になります。 |