野田城~武田信玄最後の戦い・語られる狙撃伝説
日本の歴史浪漫・史跡名所ガイド&写真集

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野田城跡を南東から見る 2021年4月18日現在 (以下に掲載する写真は2018年1月21日に撮影したものを含みます)

 上の写真は、野田城跡を南東側から撮影したもので、写真中央に見える樹木が生い茂った小高い場所が、かつて野田城があった場所です。

 写真奥にそびえる山は、本宮山(標高 789m)になります。

 野田城跡の南東側(写真手前側)には、かつては人々の往来があった伊那街道が通っていて、現在はJR飯田線が通っています。

 野田城は、永正5年(1508年)に菅沼定則によって築城されたとされ、その後、戦国時代に今川氏、武田氏、徳川氏によって争奪戦が繰り返された城で、なかでも甲斐の戦国最強ともいわれる武田信玄が野田城を攻めた「野田城の戦い」(元亀4年[1573年]1月~2月)が有名です。

 写真に見えるのどかな田園風景は、今から約450年前の1573年(元亀4年)1月から2月にかけては、今では想像もできないほどの、赤備え(あかぞなえ)の武田信玄率いる約30,000人といわれる軍勢が野田城を取り囲んでいたことでしょう。

 元亀3年(1572年)12月22日に三方ヶ原(静岡県浜松市北区)で徳川家康・織田信長連合軍を撃破した武田軍は、元亀4年(1573年)1月10日に、現在の天竜浜名湖鉄道(天浜線)気賀駅の南東にある刑部あたりから出発し、三ヶ日、宇利峠、新城市八名、一鍬田を通って、豊川の「ささら瀬」(庭野の北辺りか)を渡って石田に上がり、兵士たちに野田城全周を何重にも包囲させ、その際にいったん百々免記(ドドメキ)に本陣を置いたようです。

 その後、野田城周辺を検分した武田信玄は、同城の北西側約1kmあたりのところ(吉水あたり)に本陣を移し、同城西側の高地「座頭崖」(ざとうがけ/現在の法性寺の西側)の上にも武田勝頼、武田信豊(信玄の甥)などの主だった武将を配置し、同城の全周には兵士たちを何重にも配置して包囲し、陣地には木の柵や竹を束ねて設置して防御したそうです。

 野田城の戦いがあった時期は、季節的にはまだ冬だったので、野田城を取り囲む武田軍も、城兵も夜は深々と冷えたことだと思われます。

 また、武田軍は、豊川の浅いところには見張りの兵を置き、夜中はかがり火を焚いて周囲を明るくして警戒し、ところどころに小屋を設けて長期戦に備えていたようです。








野田城跡入口
(←写真左)

 野田城跡の南西側を通る道路に、現在の野田城跡のメインの入口があります。(南東側にも入口有り)

 写真左側に、野田城と、野田城の戦いに関する説明が書かれた案内板が立てられています。

 ここのメインの入口は、野田城の二の丸部分となっていて、この入口を入っていくと、二の丸と三の丸をつなぐ土橋や両脇の堀の様子が見られ、本丸内にある稲荷や井戸跡、伝信玄公狙撃場所などがあります。

 武田信玄は、元亀3年(1572年)9月に甲斐を出発して遠征を開始した「西上作戦」の緒戦において、徳川家康方の居城を次々と落とし、ついにはここ野田城に達しました。

 しかしながら、破竹の勢いで野田城まで到達した武田信玄は、持病が悪化してしまい、この野田城の戦いの勝利を最後に、この世を去ることとなってしまいました。


野田城跡の案内看板

 新城市教育委員会により設置されたもので、1981年(昭和56年)3月1日に記述された内容となっているようで、わかりやすい野田城跡平面図も描かれています。

 記述された内容は以下のとおりとなっています。

 この城は、永正5年(1508年)に築城されたと伝えられる。菅沼定則・菅沼定村・菅沼定盈等がここを居城とした。

 城郭は南北に長く、北より三の丸・二の丸・本丸と続くいわゆる連鎖式の山城である。

 東西両側は谷になっており、当時は自然の川をせき止めて堀を形成していた。

 戦国時代、今川・武田・徳川などによって幾度も争奪戦が繰り返され、天正18年(1590年)定盈が関東へ移封されるまで続いた。


「野田の戦」案内看板

 こちらの案内看板も新城市教育委員会により設置されたものとなっています。

 説明文は以下のとおり掲載されています。

 元亀4年(1573年)1月、上洛をねらう武田信玄は、宇利峠を越えて三河に進入してきた。

 菅沼定盈(すがぬま さだみつ)の守るこの野田城を攻撃するためであった。

 野田城は小城であるが、そなえが固くなかなか攻め込めない。

 そこで信玄は、甲州の金堀人足を使って水脈を切り、城内の水をからしてしまった。

 定盈は、徳川家康の援軍も来ないので、城の運命もこれまでと判断し、城を明け渡した。




野田城跡平面図

 案内看板に掲示されていた「野田城跡平面図」です。

 写真左側(北西)から、侍屋敷、大手、土手、三の丸、二の丸、本丸(稲荷、井戸有り)、侍屋敷となっていた構造がわかります。

 また、写真上側(北)には、自然の川「杉川」をせき止めて堀として形成された「桑渕」が、下側(南西)には、同じく自然の川をせき止めて堀として形成した「龍渕」があったのがわかります。

 本丸と二の丸の間にあった堀の部分には、武田信玄が野田城を落とすために、同城の水源を断ち井戸を枯らす目的で、金堀人足(金山掘りの人達)に穴を開けて地下道を掘らせた場所の「×印」がマークされています。

 写真左側のほうの大手の正面側、すなわち野田城の北東側正面には、山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)と呼ばれ、元亀2年(1571年)以降、徳川家康から離反した作手の奥平美作守定能(さだよし)、田峰の菅沼定忠(刑部少輔)、長篠の菅沼新九郎正貞が陣を構えていました。

 家康から離反した彼ら山家三方衆は、離反前に浜松城の家康に差し出していた人質を取り返したいがために、武田信玄が三方ヶ原の戦いで家康に勝利し、天浜線の気賀駅南東にある刑部で休養していた時に、「野田城を攻撃して城主の菅沼定盈(さだみつ)を生きたまま捕虜として捕らえ、浜松城で人質となっている自分たちの身内との捕虜交換で利用してもらえないか」、と信玄に頼み込んだともいわれています。


伊那街道 根古屋村(当時の地名)

 現在の野田城跡のメインの入口付近に設置されていた「伊那街道 根古屋村(ねこや)」の案内看板です。

 野田城は、当時の地名「根古屋村(ねこや)」から、別名「根古屋城」ともいうそうです。

 「笛の盆実行委員会」さんにより設置されたもののようで、野田城跡の南側にはかつて伊那街道が通っていたことや、野田城の戦いの時に、城内にいた笛の名手「芳休」の吹く笛の音色に誘われた武田信玄が狙撃されたことなどが記されています。





三の丸の様子

野田城跡 三の丸跡入口

 野田城跡の三の丸跡入口付近の様子です。

 現在の野田城跡のメインの入口に通じる道路の少し北側にあります。

 三の丸は、野田城としては一番北側部分の城郭で、かつては三の丸の北側にも堀があったようです。

 また、三の丸の北西側には、侍屋敷があったようです。

 上の写真を撮影した場所の道路も、現在は、かつての野田城の三の丸と二の丸の中を通っている形となっていますので、写真手前の道路も、かつての三の丸の中ということになります。

 写真右側に見える小さな看板に「野田城跡 三の丸跡」と書かれています。


三の丸跡入口を入った場所

 三の丸跡入口から入った場所の風景を撮影したものです。

 正面の大きな木の下には、お地蔵さんが祀られていました。

 こういう大きな木は、樹齢何年かわかりませんが、お地蔵さんがあるということは、けっこう古くからこの場所にあった可能性があります。




三の丸跡のお地蔵さん

 古戦場跡や城跡には、ほぼあるという感じのお地蔵さんです。

 これらのお地蔵さんがあると、すみません、見学させてもらいます、と少し頭を下げてお祈りしてしまいます。


三の丸内の様子

 お地蔵さんがあった場所から、右方向へ進んだ場所の様子です。

 奥のほうへ行けるようになっていましたので、さらに進んで行きます。





三の丸跡の様子

 少し奥のほうへ進んでいくと、若干開けた場所に出ます。

 写真奥の明るいほうは、野田城の北東方向で、断崖となっています。


三の丸内から南東方向を見る

 三の丸内の少し開けた場所から、二の丸があった南東方向の様子を撮影したものです。




三の丸内から二の丸方向を見る

 この先の二の丸がある南方向へは、堀に土橋があって当時は行き来ができたようですが、現在では樹木や雑草が生い茂っていて、無理に行けば行けたかもしれませんが、ちょっと行けるような状態ではなかったと判断しましたので、ここで三の丸は引き返すことにしました。


三の丸内から北方向を見る

 ここの三の丸内には、当時の様子がわかるようなものは無さそうでした。




三の丸内から北東方向の断崖を見下ろす

 三の丸の北東端側から下のほうに見える、断崖の様子を撮影したものです。

 下のほうに見えるのが、当時の野田城の井戸の水源になっていたものと見られる現在の「杉川」です。

 当時の三の丸の北東側は、桑渕とよばれ、当時は自然の川をせき止めて堀を形成していたそうです。

 写真ではよく伝わらないと思いますが、この場所は本当に急峻で、ここから野田城を攻めるのはかなり難しいと思われる地形となっています。

 野田城の戦い開戦当初、野田城から偵察に出た数騎が武田軍に追われて城に逃げ帰った際、武田軍の追手がこの桑渕に迫った時に、武田軍はその絶壁ぶりに驚き、ある者は桑渕に落ちて溺死し、野田城内からは弓矢と鉄砲を雨のごとく浴びせられたといわれています。

 この時、野田城周辺の地理を知っている山家三方衆は、野田城の北西側の大手(追手)に入り込みますが、城兵の菅沼助兵衛定隆(さだたか)が馬に乗って槍を振り回して奮戦し、菅沼方の塩瀬甚兵衛と菅沼彌太郎は討死するも、山家三方衆と武田軍の追手は撤退していったようです。


同じく三の丸北東側の断崖

 同じく三の丸の北東端から下のほうに見える、断崖の様子を撮影したものです。

 当時の野田城に堅牢な壁や防御柵があったのなら、こちら側からまともに武田軍が攻めていたら、非常に多くの損害が出たものと思われます。

 武田信玄は、野田城を力攻めするのは難しいと判断し、金堀人足により野田城の堀の断崖に穴を開けさせたわけですが、戦後、城主の菅沼定盈が徳川家康に報告したところによると、穴を開けられた際に、堀は崩れ、土居、石垣もことごとく無くなって、そのうえ、井戸の水脈を断ち切られ渇水に及んだ、とされています。





二の丸の様子

野田城の二の丸跡

 野田城跡の西側を通る道路から見た、二の丸跡です。

 写真右下側に見える案内看板には「野田城跡 二の丸跡」と書かれています。


野田城 二の丸跡

 少し開けた平地となっています。




二の丸と本丸の間の堀跡(北側)
(←写真左)

 二の丸と本丸の間をつなぐ土橋(通路)の北側にある堀跡です。

 写真では迫力が伝わりにくいですが、結構な深さの堀で、写真右上に見える小屋のような建物が、本丸にある稲荷です。

 写真奥のほうが北方向で、野田城の北東側には、かつては桑渕と呼ばれ、自然の川をせき止めて堀を形成していたそうで、その水は野田城の井戸の水源になっていたものと思われます。

 現在の桑渕には「杉川」が流れています。

 そして、この堀の先の本丸北側には、武田信玄が野田城を落とすために、同城の水源を断つ目的で、わざわざ本国の甲斐から金堀人足(金山掘りの人達)を呼び寄せて地下道を掘らせ、水脈を断ち切って井戸を枯らし、降伏させたという穴があったそうです。



二の丸と本丸の間の堀跡(南側)
(←写真左)

 二の丸と本丸の間をつなぐ土橋(通路)の南側にある堀跡です。

 写真左側が本丸、右側が二の丸になります。

 そこそこ深さのある堀で、写真奥のほうには野田城跡の西側を通る道路が見えています。

 写真奥のほうが南西方向で、野田城の南西側には、かつては龍渕と呼ばれ、自然の川をせき止めて堀を形成していたそうで、その水も野田城の井戸の水源になっていたものと思われます。

 現在の龍渕には、法性寺(ほっしょうじ)があって、小さな水路が流れています。

 そして、この堀の先の本丸南西側には、本丸北側と同様に、武田信玄が野田城の水脈を断って落城させるために、本国の金堀人足に地下道を掘らせた穴があったそうです。



二の丸と本丸をつなぐ土橋(通路)
(←写真左)

 写真中央下側に見える通路が土橋で、写真奥に見える本丸と二の丸をつないでいたようです。

 この土橋(通路)の左右両側に、堀跡が残っています。




二の丸と本丸の間の堀跡(南側)

 野田城跡の西側を通る道路から撮影したもので、写真中央あたりの窪んで見える場所が堀跡です。

 写真左端側には、現在の野田城跡のメインの入口(二の丸)が見えています。


金堀人足が掘った穴がある場所あたり(崖下)

 上の写真は、現在の野田城跡の西側を通る道路から、かつての龍渕と呼ばれた場所にある法性寺のある崖下方向を撮影したものです。

 写真奥のほうが南西方向で、現在の法性寺がある場所あたりは、かつては龍渕と呼ばれ、自然の川をせき止めて堀を形成していたそうです。

 上の写真の先の崖には、かつては二の丸と本丸の間にあった堀があったと思われ、この堀の崖下部分には、本丸北側と同様に、武田信玄が野田城の水脈を断って落城させるために、本国の金堀人足に地下道を掘らせた穴があったそうです。





本丸の様子

本丸の様子

 上の写真は、野田城の本丸跡の様子を北東側から撮影したものです。

 写真右奥に稲荷、中央やや右に二の丸から本丸への入口、左奥に伝信玄公狙撃場所が見えています。

 武田信玄が野田城を攻めた時、同城には城主の菅沼定盈(すがぬま さだみつ)以下、松平與一郎忠正、設楽甚三郎貞通、夏目惣兵衛、そして兵士たちが約400~500名(その他、700~900人とも)いたそうですが、三の丸、二の丸、本丸を見た感じでは、500人ぐらいの城兵なら収容できるキャパシティは十分あったようです。

 野田城に到着、同城を包囲した武田信玄は、城主の菅沼定盈に対し降伏勧告をしたようですが、定盈は拒絶し、徹底抗戦を選択したのだそうです。

 武田軍が夜襲をかけてきた時には、城に近づく敵兵に弓矢と鉄砲を浴びせ、塀に取り付く者は大木で突き落とし、石を投げつけて撃退したそうです。

 ある夜には、城中に居た喜徳(きとく)という泳ぎの達者な者が、城を出て桑渕を泳いで敵陣に向かい、敵の陣小屋に火を放ったところ、おりしも風が強い夜で、みるみる武田軍の仮小屋100軒余りを焼いた、ともいわれています。

 その他、野田城の戦いには、いろいろな伝承があるようです。

 少数ながらも善戦する城兵を見て、武田信玄は、野田城が力攻めでは落としにくく、兵力の損害は抑えなければならないと考え、野田城の水の手(水脈)を断つ作戦を決行したといわれています。

 なお、当時の野田城の城兵にとって大切な兵糧が、城内のどの場所に、どの程度あったかは興味のあるところです。





本丸の入口

 二の丸側からの本丸の入口の様子です。

 簡素な木の門が建っていて、写真奥のほうに広がる空間が本丸になります。

 現在、野田城跡の西側にある法性寺(ほっしょうじ)境内の大門は、野田城の本丸にあったものを移築したそうですので、もともとはこの場所にあった門なのかもしれません。


本丸にある野田城址の石碑

 石碑の手前に平らな立方体の石がありますが、城主の菅沼定盈(さだみつ)が、馬に乗る際に台座として使用していた、という伝承があるようです。




本丸の東側部分の様子

 本丸の外側の東側には、侍屋敷があったようです。

 なお、野田城の南側にあった侍屋敷跡の様子や、その他、本ページで掲載する以外の野田城周囲の様子などの詳細は、以下のリンク先にてご紹介していますので、ぜひご覧になってみてください♪

★当サイトのその他、野田城の詳細はこちら♪
野田城(その2)~侍屋敷跡など野田城周囲の様子


伝信玄公、狙撃場所

 本丸の南西側にある「伝信玄公、狙撃場所」の案内看板です。

 野田城跡の西側にある、現在の法性寺(ほっしょうじ)の境内が伝信玄公狙撃着弾場所となっています。

 この信玄公狙撃の伝説は、以下のような内容となっています。

 武田信玄が野田城を攻めた時、城内に笛の名手「村松芳休」が居て、ある時から、日が暮れて夜になってから芳休が笛を吹くと、その美しい音色に信玄や武田方の武将が興味を持って城に近づいていくようになったそうです。

 村松芳休は、なんと、かつて武田家にいたこともあるともいわれ、信玄と面識があったかどうかはわかりませんが、芳休が武田家で披露していた音色を奏でれば、それは武田側の武将も驚くとともに、故郷の懐かしさのあまり、思わず聴き入ってしまうことでしょう。

 そのような日々が続くと、野田城内の兵士がある時、芳休が笛を吹くと身分の高そうな武将が城に近づいてくることに気付き、ある晩、城兵の鉄砲の名手「鳥居三左衛門」が火縄銃で発砲したところ、見事に信玄に命中したのだそうです。

 ただでさえ持病が悪化していた信玄は外傷を負うこととなり、信玄は野田城攻略を最後に自国へ撤退を決断するも、野田城で被弾した傷も一因となり、道中で死亡した、とされる伝説です。

 案内看板によると、狙撃に使用された火縄銃の銃身が、設楽原歴史資料館に展示されているそうです。

 その銃身は「信玄砲」とよばれているそうです。

★当サイトの武田信玄狙撃の詳細はこちら♪
野田城~武田信玄、火縄銃の名手に狙撃される!




本丸内にある井戸跡

 城内に居た兵たちにとっては、この井戸の水がとても重要だったのですが、信玄により水脈を断たれるという憂き目にあったようです。

 野田城の戦いの前に行われた「二俣城の戦い」(浜松市天竜区二俣町/1572年10月16日~12月19日)では、方法は異なりますが、信玄は同様に二俣城内の水脈を断つために、天竜川から水を汲み上げていた井楼を破壊して降伏・開城させ、力攻めによる兵力の損耗を回避しています。

 野田城の井戸が枯れたことにより、当時の城主だった菅沼定盈(すがぬま さだみつ/当時31歳)は、その後に矢文で城内に射込まれた降伏勧告に対し、自らは切腹し城を明け渡すが、城兵すべてを助命することを条件に降伏、開城することを、武田側に回答しています。

 野田城は、元亀4年(1573年)2月16日に降伏、開城となったものの、菅沼定盈ら城兵達は、約1ヶ月間、武田軍の大軍に包囲された孤立無援の中、城を守り抜いたことになり、このことは現在も評価されているようで、かの上杉謙信は、戦後、徳川家康を通じて、定盈の戦いぶりを褒め称える文書を発しているそうです。

 また、天正3年(1575年)5月、長篠の戦いのために尾張から出陣してきた織田信長が、野田城の近くに来て城の様子を見た時に、「このような小城で、しばらくの間とはいえ、信玄の大軍を防ぐとは、かつての楠木正成に匹敵する」と、定盈を大いに褒め称えたそうです。

 菅沼定盈は、降伏後、捕虜として武田軍に連行されたそうですが、武田側と徳川側の間で行われた交渉により人質・捕虜交換が双方に同意され、翌月の3月10日に、野田城の南西約1.2kmあたりの豊川の河原(広瀬川原あたりから現在の八名井グランドあたり)にて行われた徳川家と武田家の人質・捕虜交換で釈放され、徳川方に復帰したそうです。

 なお、武田信玄が甲斐の本国へ帰る途中で死去したのは、4月12日とされていますので、信玄存命のうちには人質交換が行われていることになります。

 前述のとおり、家康から離反していた作手の奥平定能、長篠の菅沼正貞、田峰の菅沼定忠の山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)は、離反前に浜松城の家康に差し出していた人質を取り返したいがために、野田城の戦いの前に、武田信玄に対し、浜松城の自分らの人質と野田城主の菅沼定盈を捕虜交換してもらえないか、と頼み込んだともいわれています。

 そのため、降伏の意志を固め、自らは切腹して城兵の命は助けることを求めた定盈でしたが、山家三方衆が正直に定盈に対し、家康の浜松城に囚われている自分たちの人質との捕虜交換として利用させてもらいたいと伝えると、定盈は「本来は敵の手に掛かって死ぬより切腹するほうがましだが、しかし、捕虜交換に利用されたとしても、生き延びて再び主君家康様のために忠義を尽くすことは、これこそ武士の本意である」と返答し、定盈は城を出て、山家三方衆が預かり、武田側の捕虜となったそうです。

 捕虜となった菅沼定盈は信玄と面会し、信玄は定盈に対し、良く戦った、と誉め言葉を発したそうです。

 そして、家康側に帰参した定盈は、三州八名郡の下條村堀之内(現在の豊橋市下条東町)へ立ち退き、そこで砦を造ってしばらく居住しますが、翌年の天正2年(1574年)には野田城を奪還して再度城主として入城し、天正3年(1575年)5月には長篠の戦いに参戦して鳶ヶ巣山の戦いで戦功を挙げ、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは江戸城留守居役を務めたそうです。

 その他、定盈は、野田城の戦い以前にも、三河から今川勢を一掃し、同族の菅沼忠久の調略(説得して味方にする)に成功したり、刑部城攻略(浜松市北区細江町)で戦功を挙げたりしています。

 これらの経歴から見ると、菅沼定盈は、戦国武将として履歴書上は優秀だったと評価できると思いますし、実際に徳川家康、織田信長、武田信玄、上杉謙信などの敵味方を問わず、武勇に優れた武将と認められていたようです。

 また、そのような定盈の功績が評価され、定盈の子孫は、江戸幕府の徳川政権下においても、しばらくは大名として繁栄したそうです。

 ただ、定盈の大野田城(定盈が野田城修築中に仮本拠とした城)におけるエピソードでは、武田の大軍勢が迫った際、定盈がトイレから出てきた時に、部下が「早く逃げましょう」と告げて手洗い用の水を持ってきたところ、定盈は「いつもはお湯なのに、敵が迫っているからといってなぜ水なのか」と言い、普段のようにお湯を持ってくるように言った、というものがあるようです。

 このエピソードは、定盈が危機に陥っても動じない立派な武将だった、ということを表現した創作話かもしれませんが、このことが事実ならば、私は個人的には、部下からすればこれらの発言・行動は快く思わないと思います。

 この時、定盈が大野田城から現在の豊橋市西郷まで待避する際には、何人かの配下が定盈を守るために犠牲になっているようですので、結果論になりますが、一刻も早く城から逃げるべきだったはずで、城主が単に堂々としていて勇猛ならいいというものではないと思います。


現在の本丸の井戸跡

 野田城は、天正18年(1590年)に廃城となっていて、それから約430年も経っていますので、現在の井戸跡は、落葉や土砂の堆積で埋もれて浅くなっています。

 菅沼定盈(さだみつ)ら城兵は、約1ヶ月間にわたって野田城を死守したわけですが、定盈の子孫が記したという「菅沼家譜」によると、籠城中に徳川家康が援軍(後詰/ごづめ。敵の後方から攻撃すること)に来て、武田軍後方の豊川対岸の山頂に現れたそうですが、何もせず引き返してしまった、という記述があるそうです。

 その山とは、野田城の南側に豊川をはさんで吉祥山(標高 382m)がありますが、吉祥山の西側部分の峰となっている、標高80mほどの笠頭山(かさかみやま)なのだそうです。

 笠頭山(かさかみやま)は、現在は旗頭山と呼ばれているようで、野田城の戦いのときに援軍に訪れた家康が、野田城兵を勇気づけるためか、多くの旗を山の上に立ててから吉田城(豊橋市)に引き揚げたそうで、そのことが由来となって、現在は旗頭山と呼ばれるようになったようです。

 武田軍侵攻の報に接した野田城主の菅沼定盈(さだみつ)は、当時浜松城に居た徳川家康にそのことを伝えるために使者を送ります。

 三方ヶ原の戦いで大敗を喫して浜松城に退却していた家康ですが、「岐阜の織田信長殿と後詰(援軍)をするから、なんとか7日間は城を持ちこたえてくれ」と書いた自筆の書状と鉄砲2丁を使者に渡して、野田城に返したそうです。

 家康と信長が援軍(後詰)に来る見込みだと知った城兵たちは、大いに喜んだそうです。

 しかし、家康は再三にわたり小栗大六重常を使者として送り出し、信長に援軍要請をしたのですが、当時の織田信長は、将軍足利義昭との関係悪化、隣接する朝倉義景、浅井長政、三好義継、松永久秀らと敵対するなど、家康の援軍要請に応じる余裕がなかったようで、信長は他にどうしようもない事情があって援軍は出せないと、断り続けたようです。

 そうして家康自身も援軍を出すことが出来ずにいる間に、野田城からは加藤長四郎が浜松城へ使者として送り出され、家康に武田軍の現況と詳細を報告し援軍要請をするも、帰路に豊川を渡る際に武田軍に見つかり討死してしまったそうです。

 加藤長四郎がなかなか戻ってこないことに疑念を持った野田城主の定盈は、今度は富安十郎太夫を浜松城へ援軍要請の使者として送り(富安は家康と吉田城で謁見したともいわれる)、無事に任務を果たした富安十郎太夫は、帰路に笠頭山で、援軍要請がうまくいったことを伝える狼煙をあげたそうで、この狼煙を見た野田城の城兵たちは、もうすぐ援軍が来る!と、とても喜んだそうです。

 徳川家康は、野田城を見捨てることは徳川家の大将として本意ではなく、また、このまま野田城を見捨てたら、どんどん自陣営の士気も落ち、離反者が続出するのではないかと考え、一念発起し、ようやく約3,000人(5000人とも)の兵を率いて浜松城を出て、笠頭山(かさかみやま)まで到着したわけですが、山の峰から見た武田軍の威容を見て、三方ヶ原で大敗を喫しただけに、とても勝ち目はないと判断して、吉田城(豊橋市)へ引き返したようです。

 一方、徳川の援軍の旗が笠頭山に翻ったのを見た野田城兵たちは大いに喜び勇気づけられたそうですが、その徳川軍が引き揚げていくのを見た時は、城内を絶望感が覆い、こうなれば忠義を守り城を枕に討死にすべし、と壮絶な覚悟となったそうです。

 家康の撤退の判断は、野田城の城兵たちを助けることはできませんが、当時の家康軍の状況を考えれば、武将の決断としては決して間違った判断だとは思いません。

 この撤退の判断は、家康の一存で決まったものではなく、きちんと家臣と軍議を開き、酒井忠次が述べた「10倍の敵と戦って勝てる見込みもなく、いったん引き揚げ時期を見計らって戦うべき」という意見のもとに決定された判断だったそうです。

 この時、徳川家康の一存で、野田城を助けることを優先し、同城を包囲する武田軍に家康軍が突入したならば、ひょっとしたら家康は討死し、日本の歴史は大いに変わってしまっていたかもしれません。

 うがった見方をすれば、そもそも、野田城の戦いが始まる約1ヵ月前に行われた三方ヶ原の戦いで、家康は佐久間信盛を中心とする織田の援軍とともに武田軍に大敗していて、敗戦後は家康はしばらく夢でうなされ、戦死する夢を見たと言われ、後詰め(援軍)に来るほど戦力的にも精神的にも余裕があったかどうかを考える必要があります。(実際に来たのは徳川軍の偵察隊だったかもしれません。)

 また、いったん笠頭山から吉田城へ引き返した徳川家康は、再び現在の豊橋市賀茂町にある照山付近へ出陣してきたそうですが、やはり隙の無い武田軍の威容を見て、再度、吉田城へ引き揚げたといわれています。

 この時には、家康は、賀茂しょうぶ園で知られる賀茂神社で戦勝祈願をしたといわれているようで、賀茂神社は、慶長8年(1603年)に家康から朱印100石を寄せられているそうです。

 これら一連の家康の出陣が事実ならば、吉田城(豊橋市)へ引き返したり、同城から出陣した際に、家康は豊橋市内の西郷、石巻、賀茂、下条、牛川あたりを通って行った可能性が高くなります。

 結果的に、野田城に徳川家康や織田信長の援軍(後詰)は来ることはなく、武田軍に城内の水脈も断たれ、野田城主の菅沼定盈は、やむをえず降伏・開城することとなります。




(参考)野田城の南側にある吉祥山の山頂から見た野田城周辺の様子
(←写真左)

 野田城の南側には、豊川をはさんで吉祥山(標高 382m)があります。

 左の写真は私が吉祥山の山頂に登った時(2021年1月)に、山頂から北側に見える風景を撮影した写真ですが、野田城周辺の様子がよくわかります。

 野田城を包囲する武田軍に見つからないように、徳川軍が吉祥山または笠頭山(かさかみやま)の南側から登山して山頂付近あるいは北方向がよく見える峰に達すれば、野田城を包囲する武田軍の陣容・布陣がよく見えたはずです。

 なお、写真左上にそびえる山は本宮山です。



南方向から見た本丸の様子

 伝信玄公狙撃場所あたりから見た本丸の様子です。


本丸にあった東屋(休憩所)

 本丸の北側のほうにあった、休憩所の機能を持たせたと思われる東屋です。




本丸の北側の様子

 本丸の北側も、二の丸、三の丸同様に断崖となっています。


本丸の様子(北東側)

 石燈籠が設置されていました。

 写真左奥が稲荷になります。




本丸の稲荷

 本丸の北東端側には、稲荷が設置されていました。


本丸の野田城稲荷の様子

 稲荷社に掲げられた白い垂れ幕の「品」の字に見える模様は、野田城の正統な歴代城主だった菅沼氏の家紋となっているようです。




本丸の稲荷の裏側(北側)は堀跡

 本丸の稲荷の裏側(北側)は、二の丸と本丸の間にあった堀跡となっています。

 写真では迫力が伝わりにくいですが、結構な深さ(高さ)を感じる堀となっています。


法性寺に移設された野田城の門

 この門は、現在の野田城跡の南西側にある法性寺(ほっしょうじ)にある大門(だいもん)で、1719年(享保4年)に野田城の門を移築したものなのだそうです。

 法性寺(ほっしょうじ)は、天正18年(1590年)の野田城廃城後、この場所にあった「ため池」を道雲寺下に移し、野田領主嶋田家の菩提寺として1658年(万治元年)に建立されたそうです。

 法性寺には、明治5年(1872年)まで寺子屋があったそうで、上の写真の雰囲気は、まさに当時の子供達が元気よく門の下をくぐる様子が目に浮かぶかのようです。

 この門は、野田城の本丸にあったものが移築されたそうですが、果たして武田信玄との戦いの頃からあるものかどうかは、今のところわかりません。

★当サイトの野田城にあった門の詳細はこちら♪
野田城にあった門~法性寺に現存する本丸の門




野田城跡を伊那街道から見る

 野田城跡を、同城跡の南東側を通る伊那街道から撮影したものです。

 写真奥方向(南西)に続く道路が伊那街道で、写真に見える橋は、野田城の水源になっていたものと思われる杉川に架かる「杉川橋」です。


野田城跡から北東方向へ続く伊那街道

 元亀4年(1573年)2月16日の、野田城主 菅沼定盈(さだみつ)の降伏により終戦となった野田城の戦いですが、戦後は、武田軍の一部は、この伊那街道を通って長篠城まで引き揚げたものと思われます。

 写真右側には、JR飯田線が通っています。

 野田城から長篠城までの距離は、徒歩で約12kmほどとなっていますが、道中、武田軍の武将たちは、あまり戦勝気分に嬉々として浸れる気分ではなかったのではないでしょうか。

 武田信玄は野田城を落とした直後からたびたび喀血(かっけつ/気管や呼吸器系統から出血し、口から血を吐くこと)をするなど持病が悪化したのだそうで、重臣たちは心配で仕方がない状態だったと思います。

 一方で、武田軍の捕虜となった野田城主の菅沼定盈は、少なからず屈辱感に悩まされながらも、捕虜交換後の捲土重来を期して、長篠城まで歩いていったのかもしれません。

 信玄の持病が悪化した事実は、おそらく一部の重臣達以外には知らされていなかったのではないでしょうか。

 信玄は遺言として、自らの死を3年間は隠し通せ、という言葉を残したらしく、そのため持病の悪化について一般兵に教えてはいけないというかん口令が出されていたとしても不思議ではないと思います。

 もし、信玄の持病悪化がもう少し先であったのなら、吉田城(豊橋市)や岡崎城での戦闘が勃発していたのかもしれません。

 長篠城に入った信玄は、療養することになりますが、4月初旬には甲斐へ撤退することを決定、撤退を開始しますが、4月12日に引き返す道中にて死去することになってしまいました。

 信玄の死去は、織田信長や徳川家康にとっては利となり、以後、両雄の武田に対する逆襲が始まることになります。







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