野田城の戦い伝説~武田信玄、火縄銃の名手に狙撃される!
日本の歴史浪漫・史跡名所ガイド&写真集
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法性寺にある伝信玄公狙撃着弾場所 2021年4月23日現在

 戦国武将で有名な武田信玄が、その人生において最後の戦いとなったのが「野田城の戦い」(愛知県新城市/元亀4年[1573年]1月~2月16日)です。

 その野田城の戦いにおいて語り継がれているのが、笛の音に誘われた信玄公が野田城内から火縄銃で狙撃され被弾したという信玄公狙撃伝説です。

 上の写真は、現在の野田城跡西側にある法性寺(ほっしょうじ)境内の崖の上にある「伝信玄公狙撃着弾場所」です。

 現在の「伝信玄公狙撃着弾場所」には、上の写真のように小さなほこらと説明板が設置されています。

 信玄が狙撃されたという伝説は、戦時の野田城主であった菅沼定盈(さだみつ)の後裔が江戸時代に記した「菅沼家譜」や、1535年(天文4年)から1579年(天正7年)までの徳川家の出来事が記された「松平記」(まつだいらき)などに記述が見られるそうですが、武田側での記述が定かではないそうです。

 武田側での記述が定かではないことは、信玄が遺言として、自らの死を3年間は隠し通せ、という言葉を残したことと関連があるかもしれません。

 武田信玄が狙撃されたという伝説の内容は、さまざまな説があるものの、おおむね以下のとおりとなっています。


 野田城の戦いが始まってしばらくすると、夜分、野田城内から美しい笛の音色が聴こえてくるようになったそうです。

 その笛を吹いていたのは、かつて武田家に居たこともあるといわれる笛の名手「村松芳休」(むらまつ ほうきゅう/一説には法休とも云われる)でした。

 芳休は、この時、笛を指南するために、たまたま野田城に居たのだそうです。

 夜になって、櫓(やぐら)に上って芳休が笛を吹くようになると、その美しい音色に信玄や武田方の武将が興味を持って城に近づいていくようになったそうです。

 村松芳休は、信玄と面識があったかどうかはわかりませんが、かつて武田家に居たこともあるという芳休が、同家で披露していた音色を奏でれば、それは武田側の武将もどこかで聴いたことがある音色だ、と驚くとともに、故郷の懐かしさのあまり、思わず聴き入ってしまうことでしょう。

 信玄はとても感心して、笛の音色の素晴らしさを褒め称えた矢文を野田城内に射込ませたともいわれています。

 そのような日々が続くと、野田城内の兵士がある時、芳休が笛を吹くと身分の高そうな武将が城に近づいてくることに気付いたそうです。

 当然、城兵たちはそれが誰だかはわかりませんでしたが、その武将は、堀端の竹に紙を付けた場所に現れるようでした。

 そこで、ある晩(2月9日といわれる)、城兵の鉄砲の名手「鳥居三左衛門」(または鳥居半四郎とも呼ばれる)が、その場所に狙いを定めて予め仕掛けておいた火縄銃を、標的のある辺りから人の声が聞こえてきた時に発砲したところ、それが見事に信玄に命中したのだそうです。

 発砲後、武田方の陣中が騒々しくなり、「大将が撃たれた!」という声も聞かれたのだそうです。

 ただでさえ持病が悪化していた信玄は外傷を負うこととなり、信玄は野田城攻略を最後に自国へ撤退を決断するも、野田城で被弾した傷も一因となり、戦後約2ヶ月後の同年4月12日に本国甲斐へ帰る道中で死亡した、とされる伝説です。


 なお、上述の内容は、一番具体的に書かれて残っている記述によるもので、鳥居三左衛門は、月明かりを頼りに、火縄銃を手に持って狙いすまして撃った、という記述もあります。

 また、ある晩、城中に居た喜徳(きとく)が、城を出て暗闇に紛れて武田軍の陣小屋に火を放ったところ、みるみる火の手が広がり武田の陣営が大騒ぎとなり、この時、籠城前に家康から送られた火縄銃で、鳥居三左衛門が敵将とおぼしき者をめがけて発砲したところ、それが信玄で、足のももに銃弾が当たった、という記述も残っているようです。

 その他、城内に居た足軽「太郎兵衛」が撃った銃弾は、武田信玄の顔の頬に当たり貫通したが、信玄を撃った足軽は後に「らい病」(ハンセン病)を患い、以後、子孫三代にわたって皆同じ病気で苦しみ、世間の人たちは信玄という名将を撃った天罰だと語った、という記述も残っているようです。

 案内看板によると、狙撃に使用された火縄銃の銃身が、設楽原歴史資料館に展示されているそうです。

 その銃身は「信玄砲」とよばれているそうです。

★当サイトの野田城跡の詳細はこちら♪
野田城~武田信玄最後の戦い・語られる狙撃伝説





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法性寺

 野田城跡の西側にある法性寺です。

 法性寺の南側にある入口を100mほど北方向へ入っていくと寺院が見えてきます。

 上の写真の黄色い矢印の部分に、「←信玄が鉄砲で撃たれたという場所」と書かれた案内看板が立てられています。


「信玄が鉄砲で撃たれたという場所」案内看板

 「←信玄が鉄砲で撃たれたという場所」と書かれた案内看板です。

 看板の矢印方向(西方向)の崖の斜面に階段があって、そこを登っていくと「伝信玄公狙撃着弾場所」に行くことができます。




伝信玄公狙撃着弾場所に至る斜面の階段

 法性寺境内西側の崖の斜面にある階段を登っていくと「伝信玄公狙撃着弾場所」があります。

 写真の右斜め上方に上がって行って、中腹あたりで左方向に折れて登っていきます。

 この法性寺西側にある崖は、野田城の戦いの当時は「座頭崖」(ざとうがけ)と呼ばれ、開戦当初は、武田勝頼、武田信豊(信玄の甥)などの主だった武将が配置されていたようです。

 そのため、鳥居三左衛門が放った銃弾が当たったのは、武田勝頼か武田信豊だったのかもしれません。


座頭崖の上にある伝信玄公狙撃着弾場所

 「松平記」の記述では、信玄は本陣を離れていた時に狙撃された、とあります。

 狙撃された時の武田軍の本陣は、この「座頭崖」(ざとうがけ)の上ではなく、野田城の北西側約1kmあたりのところ(吉水あたり)にあったようです。




「信玄公が撃たれた場所」の案内看板

 「伝信玄公狙撃着弾場所」に設置されていた案内看板です。

 この案内看板では、鳥居三左衛門が「鳥居半四郎」という名前で紹介されています。

 説明文は以下のとおりとなっています。

 1573年(元亀4年)野田城を武田軍が攻めた折、信玄は、毎晩城内から流れてくる村松芳休の吹く見事な笛の音を、この場で聞き惚れていた。

 そこを、鳥居半四郎という鉄砲の名手が城内から発砲。

 信玄は、この時の傷がもとで間もなく亡くなったとも伝えられている。


 なお、この案内看板は、「平成25年度 新城市地域活動交付金事業」として「千郷西元気ネット」さんにより設置されたようです。


伝信玄公狙撃着弾場所から見た野田城内の狙撃地点のある方向

 上の写真は、伝信玄公狙撃着弾場所から、野田城本丸内にある狙撃地点のある方向を撮影したものです。

 写真手前側に見える樹木の合い間から写真奥のほうに見える緑の部分が、現在の野田城跡の本丸方向になります。

 2地点間の距離は、「Googleマップ」で測ってみると、おおむね約80~100m程度となっています。

 狙撃当時のこの場所に、どれほどの樹木や雑草などが生い茂っていたのかは気になるところです。




野田城本丸から伝信玄公狙撃着弾場所までの距離を考える

 上の写真は、野田城跡の西側にある法性寺(ほっしょうじ)入口付近の風景を南側から撮影したものです。

 なお、写真左側に見える門は、現在の法性寺にある大門(だいもん)で、1719年(享保4年)に野田城の本丸にあった門を移築したものなのだそうです。

 野田城の戦いの当時は、この場所に法性寺は無く(1658年建立)、当時は「龍渕」と呼ばれ、自然の川をせき止めて堀を形成していたそうです。

 写真を見てわかるとおり、かつて龍渕と呼ばれ自然の堀とされていたこの場所は、東西両側(写真の左右両側)を急斜面の崖で挟まれ、野田城の守りを固くしていたことがわかります。

 写真左上あたりの崖の上が伝信玄公狙撃着弾場所で、右上のほうの崖の上が野田城本丸内の信玄公狙撃場所とされる地点です。

 上記2地点間の距離を「Googleマップ」で測ってみると、おおむね約80mから約100m程度となるようです。

 一般的に、火縄銃の命中率が高いのは距離50m以内、有効射程距離(修正して狙って当てることができ、なおかつ殺傷効力のある距離)は50mから約100mといわれ、銃の角度を上方に向ければ、最大で約500mは銃弾が届くそうです。

 歴史群像編集部と日本前装銃射撃連盟の方々による2005年頃に行われた火縄銃の射撃実験では、30m先の人物を模した高さ160cmの的に発射した5発全弾が胸部に命中、50m先の的では発射した5発中4発が命中したそうで、貫通威力も十分だったそうです。

 しかし、火縄銃は、銃身内にライフリング(らせん状の溝)が施されて銃弾の安定・直進性が高められている現代の銃と異なり、銃身内が平らな滑腔銃身で、なおかつ銃弾が丸玉となっているため、50m以上の距離になると、弾道が安定しにくくなり、命中率が落ちるようです。

 現在語られている、伝信玄公狙撃着弾場所と鳥居三左衛門狙撃地点の距離は約80mから約100m程度となっていますので、修正して狙って銃弾を命中させることができ、なおかつ相手を殺傷可能といわれる火縄銃の有効射程内に、なんとかおさまっています。

 伝えられるところによると、笛の音色を聴くために堀端まで接近してきた信玄は、竹に紙を付けた場所に来たようで、それが目印となってしまったようです。

 武田軍は、夜中はかがり火を焚いて周囲を明るくして警戒していたそうなので、かがり火の明かりで、野田城内から少しは人の動きが見えた可能性があります。

 また、夜中に笛を聴いていたとなると、信玄はリラックスしていて、鎧兜を身に付けていた可能性は低いかもしれません。

 もし、鳥居三左衛門が、長年の経験で、銃の角度をはじめとするこの距離での狙撃方法を知っていて、予め狙いを定めて火縄銃を設置して、本当に狙いどおり対岸とも言える場所に居る人物に銃弾を命中させたのであれば、鳥居三左衛門は、戦国時代の超一流スナイパー「ゴルゴ13」(さいとう・たかを氏原作・著作)として語られてもよいと思います。

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 なお、銃弾が発射された以上、弾はどこかには必ず着弾するので、たまたま狙ったとおりに当たった、ということは、銃の腕前にかかわらず十分起こり得ます。

 「菅沼家譜」の記述によると、鳥居三左衛門の発砲後、武田方の陣中が騒々しくなったのだそうです。

 このことが事実だとすれば、城内の菅沼方の兵士達には知るすべもありませんが、放った銃弾が信玄本人、あるいは信玄配下の諸将、はたまた兵士の誰かに当たって騒がしくなった可能性はあります。

 しかし、一方で考えられるのが、美しい笛の音色が聴こえる夜の静寂の中で、突然轟音ともいえる銃声が周囲に響き渡ったとしたら、武田方の誰にも命中しなかったとしても、武田軍が「何だ?何事だ?」と騒ぎ出したり、火縄銃の射程範囲から逃れるために、武田軍の陣中が騒々しくなるのは容易に想像できます。

 また、武田の陣中から「大将が撃たれた!」と叫ぶ声が聞こえたそうですが、すごくうがった見方になってしまいますが、「撃たれた」という言葉をもって「信玄に銃弾が当たった」とは断定できないと思います。

 笛の音色をゆったりと椅子に腰かけて聴いていた信玄が、突然放たれた銃弾が自らの体のすぐ近くを風を切る音とともにかすめていったことに驚いて椅子から転げ落ち、それを見た付近に居た兵士が思わず「大将が撃たれた!」と叫んだのかもしれません。

 また、撃たれた大将とは、この時、法性寺西側にある崖の「座頭崖」(ざとうがけ)の上に配置されていたと思われる、武田勝頼、武田信豊(信玄の甥)などの武将だったのかもしれません。

 武田軍としては、これまで夜に聴こえてきた美しい笛の音色は、油断させるための罠だったのかと考えて、以後は十分警戒するようになったとしても不思議はないと思います。

 もうひとつ考えておきたいことは、直接的には狙撃のこととはあまり関係ないかもしれませんが、武田信玄は、開戦時に本陣を野田城の北西側約1kmあたりのところ(吉水あたり)に配置していたので、信玄は笛の音色を聴くために、毎夜のようにわざわざ本陣からこの座頭崖まで片道約1kmの道のりを往復したことになります。

 ちなみに、武田軍は、夜中はかがり火を焚いて周囲を明るくして警戒していたそうなので、本陣から座頭崖までの行程が真っ暗闇だったということはないと思われます。

 持病が悪化しつつあった信玄が、供の兵士を連れていたとしても、毎晩のように徒歩で片道約1kmの距離を往復(計約2km)した可能性は低いのではないでしょうか。

 そう考えると、徒歩もあり得ないことはないと思いますが、信玄はわざわざ駕籠(かご)に乗って移動したか、馬に乗って移動した可能性のほうが高いと思います。





野田城内にある伝信玄公狙撃場所あたりから伝着弾場所方向を見る

 野田城本丸内にある伝信玄公狙撃場所の少し西側から見た、伝着弾場所方向に見える風景を撮影したものです。

 写真奥のほうに見える緑の部分が、伝信玄公狙撃着弾場所がある場所(法性寺境内の崖の上)になります。

 現在、本丸内にある伝狙撃場所から伝着弾場所方向を見ても、樹木で遮られていて、様子がよくわからないため、この場所から撮影したものです。

 写真下のほうに見える道路が、現在の野田城跡の西側を通る道路になります。


野田城跡の本丸内にある「伝信玄公、狙撃場所」案内看板

 本丸内の西端側に設置されている「伝信玄公、狙撃場所」の案内看板です。

 信玄を狙撃したという鳥居三左衛門は、野田城の戦いの後に、信玄公に面会を求められ、狙撃した火縄銃を見せたところ、褒美をもらった、という記述があるようです。

 野田城主の菅沼定盈(さだみつ)は、城兵の助命を条件に開城降伏していますので、たとえ信玄が鳥居三左衛門の狙撃により被弾していたとしても、開城後に鳥居三左衛門に対し復讐行為をすることは、約束を破り、信玄自身の顔に泥を塗ることになるため、三左衛門は、信玄と面会後も生き延びたと思われます。

 その後の鳥居三左衛門は、その銃の腕前を認められて武田方に仕えるようになったのかもしれません。

 それとも、鳥居三左衛門は釈放されて徳川方に復帰して、2年後の長篠の戦いで、再び今度は武田勝頼軍の山県昌景、内藤昌秀、馬場信春らを始めとする名だたる武将に銃弾を浴びせることになったのか、それは歴史の謎であって、それ故、彼のその後の動向の想像は尽きることはないでしょう。

 鳥居三左衛門を主人公にした、彼の生い立ちから青年期、徳川従軍期、そして晩年といった「if」(イフ/もしかして)のストーリー、すなわちフィクションが、結構壮大なスケールで描けそうですが、いかがでしょうか。




「伝信玄公、狙撃場所」の案内看板

 新城市教育委員会により設置されたもので、記述は以下のとおりとなっています。

 笛の音に誘われた武田信玄をこの付近より火縄銃にて狙撃した。

 その銃は銃身だけが設楽原歴史資料館に展示してある。


伝信玄公狙撃場所から伝着弾場所方向を見る

 野田城本丸内にある伝信玄公狙撃場所から、伝着弾場所方向に見える風景を撮影したものです。

 写真奥方向(西方向)約100mあたりの場所が、伝信玄公狙撃着弾場所になります。

 現在、本丸内にある伝狙撃場所から伝着弾場所方向を見ても、樹木で遮られていて、様子がよくわからない状態です。

 当時の野田城本丸の城壁部分がどのような構造だったか興味があります。

 立派な土塀だったのか、それとも丸太や木の板を使用したものだったか、わかりませんが、現在よりは見通しが良かったものと思われます。




旧国道151号にある野田城址案内看板

 現在の野田城跡北側を通る旧国道151号の道路沿いに設置されている、野田城跡の案内看板です。

 写真右側(南方向)が野田城跡で、この案内看板には、野田城の戦いにおいて信玄公が狙撃されたという伝説の主人公のひとりである、笛の名手「村松芳休」が描かれています。

 芳休は、野田城の戦いの時、笛を指南するために、たまたま野田城に居たのだそうですが、民間人なのか、それとも軍属(スパイ含む)なのか、明確に断定する記述はなさそうです。


野田城址案内看板に描かれた村松芳休

 旧国道151号の道路沿いに設置された野田城址案内看板を拡大撮影したものです。

 野田城の戦いが終わった後の、村松芳休の動向はわかりませんが、野田城主の菅沼定盈(さだみつ)は、城兵の助命を条件に開城降伏していますので、芳休は釈放されたか、あるいは武田家に仕えるようになったのかもしれません。

 村松芳休は、伊勢国山田出身(現在の三重県伊勢市)だったそうなので、故郷に帰ったのかもしれません。

 なお、芳休は「小笛 芳休」とも呼ばれたようです。






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