野田城(その2)~侍屋敷跡など野田城周囲の様子 | ||
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旧国道151号にある野田城址案内看板 (←写真左) 野田城跡の北側を通る旧国道151号に設置されている野田城址の案内看板です。 写真手前側(南側)が野田城址になります。 案内看板には、武田信玄と武田家の家紋「武田菱」、野田城主の菅沼定盈(さだみつ)と菅沼家の家紋が描かれていますので、見る機会がありましたら写真を撮られることをおススメします。 今から約450年前の1573年(元亀4年)1月から2月にかけて発生した「野田城の戦い」は、かの有名な戦国武将 武田信玄の最後の戦いとして知られています。 ※以下に掲載する写真は2021年4月23日に撮影したものがほとんどです。(一部4月18日に撮影したもの有り) |
野田城跡側から旧国道151号を見る 上の写真を撮影した場所のあたりは、野田城の戦いの当時は、野田城大手の土手があった辺りではないかと思います。 写真左右に通る道路が旧国道151号で、写真奥に見える電話ボックスの左側に、武田信玄や菅沼定盈が描かれた野田城址案内看板が見えています。 写真奥方向(北西方向)約200mあたりのところには「山田屋敷」という地名の場所があって、かつて野田城の侍屋敷があった場所になるのではないかと思います。 また、野田城の戦い開戦当初、武田信玄は、写真奥方向(北西方向)約800m~1,000mあたりの吉水あたりに本陣を配置したとされています。 |
武田信玄が描かれた案内看板 旧国道151号に設置された案内看板には、「諏訪法性兜(すわほっしょうのかぶと)」をかぶった武田信玄が描かれています。 案内看板には「武田信玄 最後の城攻め 上洛断念の地」と書かれています。 武田信玄の生涯戦績は、72戦の内訳が49勝3敗20引き分け、といわれているようなので、いかに戦に強かったかわかります。 ちなみに信玄のライバル、上杉謙信は61勝2敗8分け、織田信長は49勝15敗4分け、徳川家康は31勝13敗7分け、豊臣秀吉は45勝3敗5分けといわれているようです。 |
案内看板に描かれた野田城主 菅沼定盈 旧国道151号に設置された案内看板に描かれた、野田城の戦い当時の城主 菅沼定盈(さだみつ)です。 菅沼定盈は、武田信玄ほどの有名な武将ではありませんが、徳川家康に仕えた後は、家康に忠義を尽くし、長篠の戦いでは戦功をあげるなど、東三河の戦国時代の歴史を語る上では欠かすことのできない武将となっています。 コーエーテクモゲームスの有名な戦国シミュレーションゲーム「信長の野望」シリーズでも、登場しているバージョンがあるようです。 「武勇 68」ぐらいで登場しているようなので、そこそこ強い武将の扱いとなっているようです。 |
旧国道151号にある野田城址案内看板(北東側) 旧国道151号に設置されている案内看板の北東側(新城・鳳来側)には、城主 菅沼定盈の菅沼家の家紋(上方)と、武田信玄の武田家の家紋「武田菱」が描かれ、「野田城址 武田信玄 最後の城攻め 上洛断念の地」と書かれています。 |
旧国道151号にある野田城址案内看板 現在の野田城跡北側を通る旧国道151号の道路沿いに設置されている、野田城跡の案内看板です。 写真右側(南方向)が野田城跡で、この案内看板には、野田城の戦いにおいて信玄公が狙撃されたという伝説の主人公のひとりである、笛の名手「村松芳休」が描かれています。 |
野田城址案内看板に描かれた村松芳休 旧国道151号の道路沿いに設置された野田城址案内看板を拡大撮影したものです。 村松芳休が登場する、野田城の戦いにおける有名な武田信玄狙撃伝説につきましては、当サイトの別ページにて詳細を掲載していますので、ぜひそちらをご覧ください☆
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野田城跡を北東側から見る(かつての桑渕) 上の写真は、野田城跡を北東側の旧国道151号から撮影したものです。 写真右側の樹木が生い茂った場所が野田城跡になります。 写真中央に流れている川は「杉川」で、野田城の戦い当時は、写真に見える野田城の北東側崖下は「桑渕」とよばれ、当時は自然の川をせき止めて堀を形成していたそうです。 |
旧国道151号から野田城三の丸跡を見る 野田城の三の丸跡部分を北東側から見たものです。 写真左下に杉川が少しだけ見えています。 写真右側に見える道路が旧国道151号で、写真奥方向(南西方向)が豊川市、豊橋市方面になります。 野田城の戦い当時は、写真に見える旧国道151号の盛土は無かったものと思われます。 |
野田城跡の北側の様子 野田城跡の北側を通る旧国道151号から北方向に見える風景を撮影したものです。 写真右端奥のほうに、旧国道151号に設置された、村松芳休が描かれた野田城址案内看板が見えています。 このあたりは、かつての野田城大手の土手があったあたりなのではないかと推測しています、 |
野田城跡を北西側から見る 写真手前側に見える道路が旧国道151号で、写真左奥のほうに見える樹木の生い茂った場所が、現在の野田城跡になります。 写真右奥に見える道路を入っていくと、野田城跡の入口があります。 |
かつて野田城の北西側の入口があったあたり 旧国道151号から野田城跡の西側を通る道路に入った場所あたりから、南東方向(本丸方向)に見える風景を撮影したものです。 この付近に、かつての野田城の三の丸側の入口があったのではないでしょうか。 |
三の丸跡付近から見た南西方向の様子 上の写真は、野田城跡の西側を通る道路の、三の丸跡入口付近から南西方向に見える風景を撮影したものです。 この辺り一帯も、かつては野田城の三の丸の一部を形成していたものと思われます。 |
三の丸北側の様子 上の写真は、野田城跡の西側を通る道路から、三の丸跡の北東部分を撮影したものです。 このあたりは堀があったのではないかと推定されています。 写真ではわかりませんが、写真奥のほうは、先のほうで急斜面になっているものと思われます。 |
三の丸跡入口付近から南東方向を見る 写真左側に、三の丸跡入口が見えています。 写真に見える道路は、野田城跡の西側を通る道路で、写真奥方向が本丸跡になります。 この道路も、かつては三の丸があった場所ではないかと思われます。 |
二の丸跡付近から北西方向を見る 野田城跡の西側を通る道路の二の丸跡付近から北西方向に見える風景を撮影したものです。 写真奥のほうに本宮山(標高=789m)が見えています。 かつての野田城内からも、本宮山が綺麗に見えたことだと思います。 |
本丸跡入口付近から南方向を見る 野田城跡の西側を通る道路の本丸跡入口付近から南方向に見える風景を撮影したものです。 写真奥のほうに吉祥山(標高=382m)が見えています。 かつての野田城内からも、本宮山同様に吉祥山が綺麗に見えたことだと思います。 |
本丸南側の侍屋敷跡などの様子 |
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本丸内の南方向へ通じる道 上の写真は、野田城跡の本丸内の南側にある、城内南方向へ続く道の様子を撮影したものです。 写真奥のほうへ進むと、かつて侍屋敷があったとされる、野田城の南側へ出ることができます。 なお、本ページに掲載する野田城跡などの写真は、以下のリンク先ページの補完的なものとなっていますので、野田城の戦いや同城の構造の詳細をお知りになりたい方は、ぜひ下記のリンク先ページをご覧ください♪
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本丸跡南側にある道の分岐 写真左奥方向と右方向へ下っていく道の分岐があります。 両側の道に挟まれるように、堀のように深くなった部分があります。 |
本丸から野田城南側へ続く道 下り斜面となっていて、かつて侍屋敷があったとされる場所のほうへ続いています。 |
本丸南東端側から北方向を見る 写真左奥のほうに、本丸内にある稲荷社が小さく見えています。 写真右側の崖下のほうは、かつて自然の川をせき止めて堀を形成していたという「桑渕」になります。 |
本丸内の北東側にあったとされる井戸があったと思われる場所辺りの様子 本丸内の北東側にも井戸があったとされる資料が見られるようですが、井戸跡と思われるような場所はわかりませんでした。 |
本丸の北東側の少し深く、崖斜面に向かって崩れたような場所 本丸の北東側には、地面が少し掘られたように深くなって、崖の斜面のほうに向かって少し崩れたような場所がありました。 このあたりに井戸があった可能性もあります。 |
本丸から南方向へ少し下りた場所 (←写真左) 写真左上(北方向)のほうが本丸跡になります。 写真左側に見える斜面に通路があって、右側の部分が堀のように少し深くなった場所があります。 |
本丸からさらに南方向へ下りた場所の様子 もう少し南方向へ下りて行くと、通路には階段が整備されていました。 写真奥方向(北方向)が本丸方面になります。 |
本丸から南方向へ下りて行ったところにある鳥居 本丸から通路を通って、どんどん南方向へ下りて行くと、野田城跡の南側入口が見えてきて、鳥居が設置されていました。 |
野田城跡南側入口付近にある鳥居 鳥居を南側から撮影したもので、写真奥方向(北方向)へ登っていくと本丸に出ます。 この鳥居は、今から110年ほど前の明治44年(1911年)2月に建てられたものです。 |
野田城跡南側入口の西側にある平地 鳥居の下の西側に、写真のように開けた平地がありました。 このあたりも、かつて野田城の侍屋敷があった場所のひとつかもしれません。 |
野田城跡南側入口の西側にある平地 写真に見える平地の更地が、当時からあるものなのかはわかりませんが、いかにも何らかの建物が建っていたことを思わせる場所となっています。 もちろん、単純に江戸時代以降の民家が建っていただけの場所かもしれません。 写真右側に見える階段を上がって行くと、さきほど紹介した鳥居があって、さらに登っていくと本丸跡に出ます。 |
野田城跡の南側入口 野田城跡の南側入口は、写真のように民家の間にありますので、初めてこちら側から訪れた人は、ここが野田城跡の南側入口とはわかりにくいかもしれません。 入口部分には、小さな階段がありますが、民家の入口と思って、ここから野田城跡へ入るのは躊躇してしまいそうです。 野田城跡のこちら側の入口は、おそらく私有地であって、所有者の方のご厚意により通れるようになっているものと思われます。 階段を上がった場所には、野田城跡の入口を示すかのように、石柱が4本(左右に2本ずつ)設置されています。 また、写真手前側に見える道路は、かつては多くの人々が往来したと思われる伊那街道になります。 |
野田城跡南側入口付近の民家に掲出された野田城址説明板 写真右側に見える民家の1階西側壁面には、野田城址の説明文が書かれた板が設置されていました。 この説明板も、民家の方のご厚意で取り付けられているものと思われます。 写真奥のほうに見える階段を上がって行くと、鳥居があって、さらに登っていくと本丸跡に出ます。 |
新城観光学会さんによる「野田城址」説明板 説明板には以下のとおり記述されています。 永正五年(1508年)菅沼新八郎定則(田峯城主 菅沼定忠の三男)が築城、天文十三年(1544年)二代目定村が家督を継ぐ。 弘治元年(1555年)定村は雨山の戦いで討死、三代目定盈(さだみつ)が相続する。 永禄四年(1561年)今川氏真に攻め落とされ、翌年奪還、城の修理のために大野田城に移る。 元亀二年(1571年)武田信玄襲来、定盈は大野田城に火を放って西郷へ退く。 武田勢は兵を収めて帰国。定盈は修復なった野田城に戻る。 天正十八年(1590年)定盈は上州阿保に一万石で移封される。 ○城の形は段丘城で遺構には「曲輪、空堀、碑、説明板」がある。 ○“明笛の響き”の云われ… 元亀四年(1573年)野田の戦いの時、伊勢山田の笛の名手、村松芳休が城内で夜毎笛を吹いた、二月九日の夜、武田信玄が妙なる音色に聞き惚れて堀端に来た所を城中の鉄砲の名手、鳥居半四郎が引き金を引くと「大将が撃たれた」と云う声が揚がり敵陣が動揺した。 翌日和議の矢文が城中へ届いたという。 これが基で武田信玄は甲州に引き上げ、途中の信州駒場で信玄は息を引き取ったと謂われている。 新城観光学会 平成21年11月吉日 |
野田城跡を南東側から見る 写真に見える民家の裏手一帯の竹やぶのある場所が、かつての野田城の侍屋敷があったと思われる場所です。 写真に見える道路は、野田城跡の南東側を通る、かつての伊那街道で、民家の左側には、旧街道などでよく見られる祠(ほこら)が見えています。 |
野田城跡を南東側から見る 写真奥のあたりが本丸部分になります。 |
侍屋敷があったと思われる竹やぶ内の様子 野田城跡の南東側にある、かつて侍屋敷があったと思われる竹やぶ内の様子を、伊那街道側から撮影したものです。 それなりに平地になっている様子がわかります。 |
野田城跡を南側から見る 写真左側に見える道路が、現在の野田城跡の西側を通る道路です。 写真奥の高い場所が本丸跡で、写真手前側のあたりにも、かつては侍屋敷があったかもしれません。 なお、写真には写っていませんが、写真左側に法性寺があります。 |
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野田城跡を南東方向から見る JR飯田線の「涌清水(わくしみず)踏切」付近から見た野田城跡の様子です。 |
野田城跡南東側から見た吉祥山と笠頭山 (←写真左) 野田城跡南東側の伊那街道から南側に見える吉祥山、笠頭山の様子を撮影したものです。 写真左奥に、JR飯田線の「涌清水(わくしみず)踏切」が小さく見えています。 菅沼定盈の子孫が記したという「菅沼家譜」によると、籠城中に徳川家康が援軍(後詰/ごづめ。敵の後方から攻撃すること)に来て、武田軍後方の豊川対岸の山頂に現れたそうですが、何もせず引き返してしまった、という記述があるそうです。 その山とは、吉祥山の西側部分の峰となっている、標高80mほどの笠頭山(かさかみやま)なのだそうです。 笠頭山(かさかみやま)は、現在は旗頭山と呼ばれているようで、野田城の戦いのときに援軍に訪れた家康が、野田城兵を勇気づけるためか、多くの旗を山の上に立ててから吉田城(豊橋市)に引き揚げたそうで、そのことが由来となって、現在は旗頭山と呼ばれるようになったようです。 |
野田城南東側から見た大野田城址と腕扱山 (←写真左) 左の写真は、野田城跡南東側の伊那街道から東方向に見える風景を撮影したものです。 写真左端には、奪還した野田城の修復中に、菅沼定盈(さだみつ)が一時的に居住していたという大野田城址が見えています。 大野田城址は、野田城址から東に約700mほどの距離で、現在は樹木に覆われています。 また、写真左奥遠方には、桜渕公園の南側にある腕扱山(うでこきさん/標高=128m)が見えています。 その昔、武田信玄が2万の軍勢を率いて陣を構え、うでこき(うでのたつもの)を選りすぐって、この山で軍議を開いたため、うでこき山と名付けられたともいわれています。(異説有り) |
野田城址の北東側の様子~かつての桑渕 |
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野田城跡の北東側の様子 現在の野田城跡の北東側には、写真に見えるように「杉川」が流れています。 上の写真は、杉川に架かる「杉川二号橋」から北西方向に見える風景を撮影したものです。 写真奥に見える樹木に覆われた崖の上が、野田城の二の丸、三の丸あたりになります。 野田城の戦い当時のこのあたりは、自然の川をせきとめて堀を形成していて、桑渕と呼ばれたそうです。 |
杉川から北方向を見る 写真左側の崖の上に野田城跡があります。 |
杉川から本丸方向を見る 武田信玄は、野田城を力攻めするのは難しいと判断し、野田城を落とすために、同城の水源を断つ目的で、わざわざ本国の甲斐から金堀人足(金山掘りの人達)を呼び寄せて、本丸と二の丸の間の堀付近に穴を掘って地下道を掘らせ、水脈を断ち切って井戸を枯らし、降伏させたといわれています。 写真中央奥あたりが、信玄が金堀人足に穴を掘らせた場所あたりではないかと思うのですが、現地確認はしていません。 なお、信玄が金堀人足に掘らせた穴は、野田城西側の現在の法性寺側にもあったようです。 |
杉川から南方向を見る 写真中央奥あたりが、かつて野田城南側の侍屋敷があったと思われる場所になります。 |
野田城址の西側にある法性寺は、かつての龍渕 |
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野田城跡の西側にある法性寺 上の写真は、現在の野田城跡の西側にある法性寺(ほっしょうじ)の境内の様子を、同寺の南側入り口付近から撮影したものです。 野田城の戦い当時は、この場所は自然の川をせきとめて堀を形成し「龍渕」と呼ばれていました。 なお、写真左側に見える門は、現在の法性寺(ほっしょうじ)にある大門(だいもん)で、1719年(享保4年)に野田城の本丸にあった門を移築したものなのだそうです。 また、写真左側(西側)は、かつては「座頭崖」(ざとうがけ)と呼ばれた崖となっていて、その崖の上には「伝信玄公狙撃着弾場所」があります。 写真右上の崖の上が野田城跡で、武田信玄は写真右上の野田城本丸内から鳥居三左衛門に火縄銃で狙撃されたと伝えられています。 |
法性寺境内の様子 法性寺境内は、現在は普通に平地となっていますが、東も西も崖となっていて、野田城の戦い当時は「龍渕」と呼ばれて、野田城の防御の要となる堀となっていました。 法性寺(ほっしょうじ)は、天正18年(1590年)の野田城廃城後、この場所にあった「ため池」を道雲寺下に移し、野田領主嶋田家の菩提寺として1658年(万治元年)に建立されたそうです。
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法性寺の寺院 法性寺の南側にある入口を100mほど北方向へ入っていくと寺院が見えてきます。 上の写真の黄色い矢印の部分に、「←信玄が鉄砲で撃たれたという場所」と書かれた「伝信玄公狙撃着弾場所」の案内看板が立てられています。 |
法性寺境内から野田城本丸方向を見る 武田信玄は、野田城を力攻めするのは難しいと判断し、野田城を落とすために、同城の水源を断つ目的で、わざわざ本国の甲斐から金堀人足(金山掘りの人達)を呼び寄せて、本丸と二の丸の間の堀付近に穴を掘って地下道を掘らせ、水脈を断ち切って井戸を枯らし、降伏させたといわれています。 写真中央奥あたりが、信玄が金堀人足に穴を掘らせた場所あたりではないかと思うのですが、現地確認はしていません。 なお、信玄が金堀人足に掘らせた穴は、前述のとおり、野田城北側にもあったようです。 |
法性寺境内の東側を流れる水路 法性寺境内の東側、すなわち野田城址の西側を流れる水路です。 写真左側が法性寺境内、右側の崖の上が野田城跡になります。 野田城の戦いの当時、同城の西側は、自然の川をせき止めて堀を形成していたといわれ、その場所は「龍渕」と呼ばれたそうですが、おそらくこの水路が、当時「龍渕」と呼ばれた堀を形成していたものと思われます。 |
法性寺境内を流れる水路 法性寺の南側入口付近で撮影した、同寺の境内を流れる水路です。 写真奥方向が東方向になります。 この水路は、現在は野田城跡の南方約150mあたりのところにある、農業用のため池に流れ込んでいるようです。 |