飯田線(JR東海) 各駅探訪~千代駅(千代-天竜峡) 
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 このページでは特に飯田線の千代駅(千代-天竜峡)周辺の様子を撮影したり撮り鉄した写真画像などを掲載しています♪
現在の千代駅は、いわゆる「秘境駅」として知られ、JR東海の運行する「飯田線 秘境駅号」の停車駅となっています。
千代駅の北西側には、かつて天竜川で採取された砂利を貨車に積み込むためのホッパー(トンネル型)があったようです。


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金野駅 鉄道関連趣味の部屋♪~飯田線(JR東海) 各駅探訪『飯田線 各駅探訪』TOPへ♪ 天竜峡駅


飯田線(JR東海) 千代駅 ちよ Iida Line
千代駅 【豊橋起点:114.8km】  2023.10.02現在 ~☆なお、以下に掲載する写真は特筆が無い限り同じ日に撮影した写真になります。

 長野県飯田市千栄(ちはえ)にある飯田線の千代駅(ちよえき)です。

 上の写真は、千代駅の様子をホーム上の北側(天竜峡・飯田方)から撮影したもので、写真奥方向が南方向で、金野駅方面(平岡・豊橋方面)になります。

 現在の千代駅周辺は、駅の北東側のすぐ近くに民家がありますが、周囲を樹々などの多くの自然に囲まれた閑静な駅となっていて、いわゆる「秘境駅」のジャンルに入る駅として知られています。

 また、「千代」(ちよ)という駅名が、縁起が良い、長寿、おめでたい、とされて人気があるようです。

 現在の千代駅に飯田線の電車に乗らずに訪れる場合は、千代駅の東側(直線距離で約700m~1km)を通る最も近い主要地方道の長野県道1号飯田富山佐久間線から分岐する2本の道路が主としてアクセス道となっています。

 その2本の道路のうち、1本は三遠南信自動車道(飯喬道路)の千代インターチェンジ(IC)のすぐ南側から西方向(千代駅方向)へ入る道路で、長野県道1号との交差点は千代駅の北東約700mあたり(直線距離)のところになります。

 もう1本の道路は、千代駅の東南東約800mあたり(直線距離)で長野県道1号と交差している道路です。

 千代駅への2本のアクセス道は、いずれのルートも自動車で通行可能ですが、道幅は狭く注意が必要で、特に気をつけたいのは、千代駅へは北側と南側の2ヵ所に駅前まで道路が通じていますが、千代駅の北側の駅前へ通じる道路は特に駅近くは道幅が狭く、自動車を停めたり転回(Uターン)するスペースは無いものと思われますので十分注意が必要です。

 私が千代駅を訪れた時は、千代駅の南側の駅前へ通じている道路であれば、駅前近くに自動車を停めることができるスペースはあり、転回も十分可能です。


 千代駅は、1932年(昭和7年)10月30日に、三信鉄道が天竜峡駅から門島駅までを開業した際に「千代停留場」として設置され、戦時中の1943年(昭和18年)8月1日に三信鉄道線が飯田線の一部として国有化されて「千代駅」に昇格し、鉄道省の駅となりました。

 戦後は、1949年(昭和24年)6月1日に発足した日本国有鉄道(国鉄)の駅となり、1987年(昭和62年)4月1日の国鉄分割民営化により、現在のJR東海(東海旅客鉄道)の飯田線の駅となっています。


 そして、千代駅で特筆すべきことは、1953年(昭和28年)4月1日から1966年(昭和41年)12月20日までの間は、貨物の取扱駅となっていたことです。

 そのことを示すように、現在、千代駅構内の南西側にある側線は、天竜川で採取された砂利を貨車に積み込むホッパーへと続いていた側線の名残となっています。

 詳細は後述しますが、現在は周囲を多くの緑に囲まれて、とても閑静な駅となっている千代駅は、驚くことに、かつては砂利運搬専用貨物列車の拠点である発着駅として活躍し、現在の姿とはおそらく全く異なり、貨物列車のED21形牽引機の唸るような電動機のモーター音や警笛、牽引される貨車が線路上をガタンゴトン、ガチャガチャと進む音、電気機関車と貨車が連結される際のガチャーンという音、ホッパーから貨車へ砂利を積み込む際の作業音など、さまざまな機械音が駅周辺に響き渡る、近代的な駅だった時期があったのです。


 現在の千代駅は、単式ホーム1面1線の地上駅(側線有り)で、ホーム上に待合所はありますが、駅舎の無い無人駅となっています。

 なお、現在の千代駅は利用者が少ないこともあってか、発着する列車の本数は少なく、普通列車でも通過する列車があるようですので、千代駅を飯田線の電車で訪れる場合には、事前に十分時刻表を確認しておくことが重要だと思います。

 現在の千代駅は秘境駅として知られ、JR東海の運行する急行「飯田線 秘境駅号」の停車駅のひとつとなっています。(秘境駅号に乗車される際は、停車駅について必ず事前にご確認ください。)



千代駅の南側出入口付近の様子①

 写真左方向が南方向で金野駅方面(平岡・豊橋方面)になり、写真奥のほう(西方向)に千代駅の南側出入口が見えています。

 長野県道1号から千代駅の南側駅前まで通じている道路は主として2本ありますが、いずれの道を通っても、長野県道1号からこの場所までは、おおむね約1.1km程度の走行距離(徒歩も同じ)となっています。

 この場所は、千代駅のいわゆる「駅前通り」(南口側)になるわけですが、ご覧のとおり、民家や売店、自動販売機、トイレ、駐輪場などはありません。

 ただし、千代駅の北東側すぐの場所には民家がありますし、当駅から北東方向に直線距離で約700mあたりのところにある三遠南信自動車道(飯喬道路)の千代インターチェンジ(IC)まで向かう道路周辺にも民家はたくさんあり、また、飯喬道路以北の地域には飯田市の市街地が広がっています。

 なお、かつては、写真左奥の道路脇に駐輪場(自転車、バイク置き場)がありましたが、現在は撤去されて無くなっています。


千代駅の南側出入口付近の様子②

 写真右奥のガードレールと擁壁の間に、千代駅の南側出入口があります。

 写真に見える架線柱の下あたりに出入口があります。

 かつては、写真左下側に見える、道路の一部が白っぽく見えている場所あたりに駐輪場が設置されていました。

 現在は撤去されて無くなっています。


千代駅の南側出入口付近の様子③

 写真中央奥のガードレールと擁壁の間、架線柱の下あたりに千代駅の南側出入口があります。


千代駅の南側出入口付近から南西方向を見る

 駅の周囲には、草木が鬱蒼(うっそう)とした雰囲気で生い茂っていました。

 私が千代駅を訪れた日は、10月初旬のまだ暑さを感じる日でしたので、ちょっとした亜熱帯のジャングルのような雰囲気すら感じてしまうほどでした。

 写真奥のほうには、天竜川が流れているのですが、私が千代駅を訪問した時は、水面や河原を鮮明に見ることができませんでした。

 写真に見えている線路は、千代駅構内の南西側にある側線です。

 現在、この側線は保線関連車両の留置などに使用されているものと思われます。


千代駅南側出入口付近から見える側線

 千代駅の南側出入口付近から、駅の構内の様子を見てみると、事前にネット上で見たとおり、駅構内南西側には側線がありました。

 この側線は、かつて千代駅で行われていた、天竜川で採取された砂利を貨車に積み込むためのホッパーへと続いていた側線の名残だ、と聞いていましたので、その側線が見られて、とても嬉しく思いました。

 この側線は、かつての千代駅のそうした歴史を物語る証人でもありますので、そのようなものを直接、自分の目で見ることができるのは、やはり嬉しいものです。

 皆様もよくあることだとは思いますが、行きたい場所を調べて「かつての〇〇が残っている」と知って、喜んで「よし、行ってみよう♪」と訪れたところ、その見てみたかった〇〇が知らない間に撤去されてしまっていてがっかりした、ということはご経験されたことがあるのではないでしょうか。

 私自身もそのような経験はしていますので、やはり見たかったものが見られると、とても嬉しいものです。

 ちなみに、この側線は、三信鉄道の駅として開業された当時は無かったようです。


千代駅の南側出入口付近から南方向を見る

 写真奥方向が南方向で、金野駅方面(平岡・豊橋方面)になります。

 ここまで、為栗駅、我科駅跡、温田駅、田本駅、門島駅、唐笠駅、金野駅の紹介ページでふれてきた、人と馬が通れる程度のかつての街道「竜東線」(長野県道満島飯田線。龍東線や平岡線とも記述される)ですが、その竜東線は、為栗駅、温田駅、田本駅、唐笠駅、金野駅については駅のすぐ近くを通っていましたが、千代駅については駅前を通っていなかったようです。

 金野駅と千代駅間の、かつての竜東線跡を踏破された方の貴重なレポートを拝見させていただくと、竜東線は千代駅の南東約180mあたり(直線距離)のところで、長野県道1号と千代駅を結ぶ道路に合流して、千代駅のほうへ向かわずに、そのまま天竜峡・飯田方面へと通じていたようです。


千代駅の南側出入口付近から東方向を見る

、写真に見える、千代駅の南側駅前まで通じている道路を約1.1kmほど写真奥のほうへ進んでいくと、長野県道1号に出ることができます。

 ただし、長野県道1号に出るまでは、何ヵ所かの道の分岐点がありますので、間違った方向へ行かないように注意する必要があります。

 この千代駅前まで続く道路は、飯田市道千代駅線となっているようで、かつて平岡~為栗~我科~温田~田本~門島~唐笠~金野~千代を結んで天竜川左岸(東側)に沿って通じていた人と馬が通れる程度の街道「竜東線」(小道)は、写真に見える道路を約200mほど写真奥のほうへ進んでいったあたりの右側(2つの橋の間)につながっていたようです。

 なお、かつては、写真に見えるガードレール近くの道路の一部が白っぽく見えている場所あたりに、屋根と側壁付きの駐輪場が設置されていました。

 駐輪場は、現在は撤去されて無くなっています。


千代駅への出入口(南口)

 写真奥方向(西方向)へ進むと、ホームに出ることができます。

 「秘境駅」とよばれていることもあって、初めて訪れる千代駅の出入口からホームへと向かう気持ちは、ワクワク感とドキドキ感で「さぁ、行ってみよう♪どんな景色なんだろう?」という気持ちにさせられます。


千代駅の出入口(南口)の様子をホーム側から見る

 写真奥方向が南方向で、金野駅方面(平岡・豊橋方面)になります。

 出入口には、「ハチ注意 Beware of bees」と書かれた注意書きが掲げられていました。

 また、出入口付近には切符回収箱が設置されていました。


千代駅出入口(南口)付近に設置されていた切符回収箱

 きっぷ回収箱には、「ありがとうございました 使用ずみのきっぷは この箱にお入れください JR東海」と書かれています。


千代駅の南側出入口付近から天竜峡駅方面を見る

 写真奥方向が北方向で、天竜峡駅方面(飯田・辰野方面)になります。

 千代駅周辺は、これまでの飯田線の秘境駅のように、天竜川とその両側に迫る山に囲まれた自然環境が厳しい駅、という感じではなく、どちらかというと周囲を樹々と雑草に覆われた緑豊かな駅という感じの風景となっています。

 写真左側(西側)に見える、現在は雑草が生い茂っている場所一帯には、かつては側線や何らかの設備があって、側線は千代駅の天竜峡方にある下村トンネルの西側にあったトンネル型のホッパー(砂利積込設備)のほうまで続いていたそうです。

 ネット上で見かけた詳しい方のご説明によると、飯田線の三河川合駅(愛知県新城市川合)の北西約1.6kmあたり(直線距離)のところにある宇連ダム(うれダム/1949年着手~1958年12月完成)を建設する際に砂利が必要となり、当時このあたりの天竜川は泰阜ダムが完成(1936年/昭和11年1月竣工)していたことにより堆砂が発生していて浚渫が必要とされていたこともあってか、ここ千代駅から三河川合駅まで、15トン積みの無蓋貨車「トム」(10両)を使用したED21形電気機関車牽引による砂利運搬の専用貨物列車がシャトル運転(区間往復運転)されていたそうです。

 千代駅は、1953年(昭和28年)4月1日から1966年(昭和41年)12月20日までの間は貨物の取扱駅となっていて、宇連ダム建設のための資材輸送は1953年(昭和28年)から本格的に開始されたそうですので、千代駅が貨物の取扱駅となった時期と見事に一致しています。

 ちなみに、千代駅の開業時は、側線は無く、貨物積卸場や上家、車庫、ポイント小屋なども無かったようです。

 なお、三河川合駅についても、宇連ダム建設用資材の輸送基地として、セメントなどの資材を保管する倉庫や砂利を貯蔵するホッパー、それらの施設への引込線が新設されたそうです。

 ここまで、飯田線の各駅をめぐる旅をしてきましたが、宇連ダム、佐久間ダム、平岡ダム、泰阜ダムなどの名だたるダムが、飯田線の歴史に大きく関わっていることをあらためて認識させられます。


千代駅の南側出入口付近から金野駅方面を見る

 写真奥方向が南方向で、金野駅方面(平岡・豊橋方面)になります。

 写真左側に見える架線柱の後ろ側に、千代駅の南側出入口があります。

 千代駅は、反対側の北側のほうにも駅への出入口があります。(後述)

 また、写真右側のほうには、かつて飯田線の千代駅と三河川合駅間をシャトル運転されていたという宇連ダム建設のための砂利運搬専用貨物列車の歴史を証明する、側線の一部が残っています。

 なお、写真右下側の線路の下に見える窪み(溝)のようなものは、給水や排水のために人工的に造られた開渠(かいきょ)と思われます。

 この開渠が、かつて千代駅構内西側にあった砂利運搬貨物列車の関連施設とどのような関係があったのかは、私ではわかっていません。


ホーム南側寄りから金野駅方面を見る

 写真奥方向が南方向で、金野駅方面(平岡・豊橋方面)になります。

 千代駅のホーム上のこのあたりの場所から撮影された古い写真を見かけましたが、かつては、写真右側に見える側線の向こう側に、壮大で美しい天竜川の水面と河原が見えていました。

 今現在の千代駅も、多くの緑に囲まれて秘境駅感を感じることはできますが、かつての千代駅は、今よりも、もっと天竜川が見えて風景が壮大で、秘境駅感も大きかったようです。


ホーム南側寄りから東方向に見える沢

 千代駅の南側出入口の南側(金野・豊橋方)は、ホームと線路の下を沢が流れています。

 上の写真では、草木が生い茂っていて沢の存在が非常にわかりにくいですが、この沢は千代駅の南西側で天竜川に合流しています。

 この沢の上を通る飯田線の線路は、橋梁構造ではなく、下部に水路を通す暗渠のような構造となっているようです。


ホーム南端側の様子

 写真奥方向が南方向で、金野駅方面(平岡・豊橋方面)になります。


ホーム南側寄りから天竜峡駅方面を見る

 写真奥方向が北方向で、天竜峡駅方面(飯田・辰野方面)になります。

 写真中央に見える架線柱の下あたりに、千代駅の南側出入口があります。

 写真左側に見える側線は、かつては千代駅の天竜峡方にある下村トンネルの西側にあったトンネル型のホッパー(砂利積込設備)のほうまで続いていたそうです。

 1957年(昭和32年)4月に撮影された、この地域の航空写真を見てみると、写真左側に見える側線の終端部の西側(写真左側)あたりに、かつては何らかの人工的な構築物があったように見え、また、ホーム上にある待合所の前あたりの側線の西側(写真左側)にも人工的な構築物があったように見えます。

 そして、待合所の前あたりにあった構築物には、もう1本の側線が主たる側線から天竜峡方で分岐して南西方向に斜めに続いていたようにも見えます。

 それらの構築物も、かつて千代駅~三河川合駅間でシャトル運転されていた砂利運搬専用貨物列車と関連がある設備であろう、と個人的には推測しています。

 それらの構築物は、貨物列車の運転士が交替したり、事務仕事を処理あるいは休憩したりすることができる建物であったり、分岐器のポイント(転てつ器)操作や機回し時の誘導などの操車担当の職員が常駐していた建物であったり、また、電気機関車や貨車の維持管理・点検のための車庫のようなものだった可能性もあるのではないでしょうか。

 なお、下村トンネルの西側にあったトンネル型のホッパーの他に、もうひとつホッパーがあったのかどうかは、現時点では私ではわかっていません。


ホーム南端側から金野駅方面を見る

 写真奥方向が南方向で、金野駅方面(平岡・豊橋方面)になります。

 金野駅は、ここから約1.2km(キロ程)ほど先にあり、比較的、駅間の距離が短くなっています。

 そして、このあたりの飯田線の区間では珍しく、こちら側の金野駅~千代駅間には、トンネルが1つしかありません。

 そのトンネルは、「越危山トンネル」(134/長さ 40m 待避坑なし)となっています。

 このような、トンネル数の減少も、次の天竜峡駅から辰野駅まで広がる伊那盆地(伊那谷/いなだに)の地が近いことを示していると思います。


ホーム南端側にある階段

 この階段は、写真左奥側に見える電気設備類の保守点検や保線作業の際に、関係者の方達によって使用されることと思います。

 写真左奥に見える電気設備類の白色のボックスには「金野落石 落R2」と書かれています。


ホーム南端側から天竜川方向を見る

 ホーム南端側から西方向の天竜川方向を見ても、今は亜熱帯のジャングルを彷彿とさせるかのような草木の緑しか見えません。

 かつては、ここからは天竜川の水面と河原がひらけて見えて、千代駅のホームから見える風景は、もっと壮大だったものと思います。

 だからこそ、千代駅は「秘境駅」だ、といわれるようになったのではないでしょうか。


ホーム南端側から天竜峡駅方面を見る

 写真奥方向が北方向で、天竜峡駅方面(飯田・辰野方面)になります。

 現在の千代駅は、周囲を樹木や雑草の緑に覆われた駅となっています。

 ただ、私が千代駅を訪れたのは10月初旬ですので、冬や春に訪れると、千代駅はまた違った風景を見せてくれるのかもしれません。


ホーム南端側から北東方向を見る

 写真奥に見えるガードレールのある道路が、千代駅の南側出入口と長野県道1号を結ぶ道路になります。

 写真の右奥あたりの道路沿いに、かつては駐輪場が設置されていました。

 また、写真右下側には、千代駅の南側下方を流れる沢があります。


千代駅の南側出入口付近から天竜峡駅方面を見る

 架線柱の下の手前に千代駅の南側出入口があります。

 南側出入口のそばの防護柵には、切符回収箱が設置されているのが見えています。


ホーム側から見る千代駅の南側出入口

 ローカルな鉄道路線では多く見られる光景ではありますが、飯田線の駅に多く見られる、このような自由で開放感ある駅の出入口が、私は個人的には非常に気に入っています。

 飯田線の各駅を初めて訪れてみて、「あれ?ホームへの出入口ってどこだろう…? …まさか、あそこ?」と思うぐらいが、訪れる楽しみもあっていいのではないでしょうか。


ホーム中ほどから天竜峡駅方面を見る①

 ホーム上の待合所と駅名標が近くに見えてきました。

 千代駅は、開業当初から駅舎と便所(トイレ)は無かったようですが、ホーム上の待合所だけは開業当初からあったようです。


ホーム中ほどから天竜峡駅方面を見る②

 繰り返しになりますが、ほんとうに千代駅周辺には草木の緑が多いと感じます。

 また、上述のとおり、写真左側に見える、現在は雑草が生い茂っている千代駅構内の西側(写真左側)には、かつては当駅の天竜峡方にある下村トンネルの西側にあったトンネル型のホッパー(砂利積込設備)のほうまで続いていた側線や関連設備があったようです。

 以前は、ここ千代駅のホームから、当駅の北方約350mあたりのところを東西に通る三遠南信自動車道(飯喬道路)の工事の様子や道路自体(天龍峡大橋?)が見えたそうですが、私が訪れた時は、樹木に視界を遮られて、おそらく見ることができなかったと思います。

 そのほか、千代駅のホーム上からこうして北方向を見てみると、これまでの多くの飯田線の駅の風景とは異なり、樹々の上方の視界には山は見えず、空がひらけて見えています。

 このように、千代駅の北方向の風景がひらけて見えるのは、次の天竜峡駅から辰野駅まで広がる伊那盆地(伊那谷/いなだに)の地が近いことを示しています。



千代駅のホーム上にある駅名標~千代駅の駅名の由来とは?

 千代駅は、飯田市千栄(ちはえ)にありますが、駅名は「千代」(ちよ)となっています。

 千代駅の駅名の由来について、以下にちょっと個人的に考察してみました。


 ここ千代駅がある場所は、明治初期の頃は「下村」(しもむら)と呼ばれていました。

 その下村は、1875年(明治8年)1月23日に大郡村、毛呂窪村、米峰村の一部と合併して千栄村となり、1889年(明治22年)4月1日に町村制の施行により、千代村と千栄村の区域をもって千代村が発足しています。

 その後、千代村は、1964年(昭和39年)3月31日に飯田市に編入されて消滅(廃止)しています。

 つまり、現在、千代駅のある住所は飯田市千栄(ちはえ)ですが、1932年(昭和7年)10月30日に当駅が三信鉄道の千代停留場として開業した当時は、ここは長野県下伊那郡千代村だったことになります。

 ですので、当時の人たちが、この駅を「千代駅」(ちよえき)と名付けたのは、いたって自然のことのように思われます。

 ちなみに、千代の集落(現在の飯田市千代地区)自体は、千代駅から東方向に直線距離で約4.7kmほど離れた遠い場所(千代地区を通る長野県道247号を基準地とした場合)にあります。


 なお、千代駅がある場所は、同駅の天竜峡方にある「下村トンネル」というトンネル名からもわかるとおり、かつては下村(現在の飯田市千栄下村地区)であり、駅名が「下村駅」となっても不思議ではなかったと思われます。

 このあたりの飯田線のトンネル名は、温田第1トンネル、田本第1~第3トンネル、門島トンネル、唐笠第1・第2トンネル、金野第7トンネルなど、最寄りの駅名を冠したトンネル名が非常に多くなっているからです。

 そのほか、明治初期に作成された古い絵地図を見てみると、ここ千代駅がある場所あたりは、かつては「千栄村下村」であり、字名(あざな)は「濱井場」、「滝場」などとも呼ばれたようです。

 ということは、現在の千代駅は、「浜井場駅」、「滝場駅」と名付けられても不思議はなかった、と思われます。

 下村駅、浜井場駅、滝場駅といった駅名は、おそらく当時から全国の他の地に無かったと思われます。


 それでも、当時の人達が「千代駅」(開業当時は千代停留場)という駅名を名付けたのは、やはり縁起が良くて「おめでたさ」を感じる「千代」という村の名前が最もふさわしい、と考えたからだと思います。

 当時の三信鉄道線の敷設工事は、千代駅のもうひとつ飯田寄りの天竜峡駅から始まったばかりでもあり、これから始まる遥か約70km先の三河川合駅(愛知県新城市)までの厳しい地形の鉄道敷設工事のこれからの安全や成功、鉄道開業後の繁栄を願えば、縁起が良く、おめでたい「千代」という駅名を採用することは、いたって当然で自然のことだったように思われます。


 以上は個人的見解ですので、詳細や確実なことは要検証です。


駅名標のある場所から金野駅方面を見る

 写真奥方向が南方向で、金野駅方面(平岡・豊橋方面)になります。

 かつては、写真右側に見える側線を、ED21形電気機関車が無蓋貨車のトム10両を牽引する貨物列車が走行していたと思うと、当時の様子をぜひ見てみたいと思ってしまいます。

 私個人は、いまだかつて、千代駅が砂利運搬専用貨物列車の発着駅として機能していた時代の鮮明な写真を見たことがありません。


待合所の内部の様子

 長椅子(ベンチ)が設置され、壁面には時刻表と普通運賃表が掲出されています。

 また、ほうき(箒)も置かれていて、待合所内は落ち葉なども無く綺麗にされていたため、きちんと手入れが行き届いている様子がうかがえました。

 千代駅は、いわゆる「秘境駅」として知られていることもあってか、長椅子(ベンチ)の上には、訪問時の感想などを自由に書き込める、いわゆる「駅ノート」があったようです。

 時刻表を見てみると、千代駅発着の列車は、中部天竜・豊橋方面が1日10本、天竜峡・飯田方面が1日9本となっています。

 ここ千代駅の列車の発着本数も少なくなっていますので、当駅を電車で訪れる際には、事前にしっかりとした予定・計画をたてておくことが非常に重要です。


待合所前から天竜峡駅方面を見る

 写真奥方向が北方向で、天竜峡駅方面(飯田・辰野方面)になります。

 待合所前のホーム上の歩けるスペースは狭くなっています。


待合所前から金野駅方面を見る

 写真奥方向が南方向で、金野駅方面(平岡・豊橋方面)になります。


待合所付近から天竜川方向を見る

 現在は草木ばかりが見えますが、かつては、千代駅の天竜峡方にある下村トンネルの西側にあったトンネル型のホッパー(砂利積込設備)のほうまで続いていた側線がありました。

 1957年(昭和32年)4月に撮影された、この地域の航空写真を見てみると、待合所の前あたりの側線の西側(写真奥側)にも人工的な構築物があったように見えます。

 かつては貨物列車が行き来した場所も、時を経て、上の写真のように雑草で覆われてしまった風景を見ると、松尾芭蕉の有名な俳句を思い出してしまいます。

 「夏草や つわものどもが 夢のあと」

 少し、ニュアンスが違うかも、とは思いますけれども。

 なお、写真右奥のほうには、とてもわかりにくいですが、小屋のようなものの屋根部分が見えています。

 この日は、写真前方のほうに見える草地の奥の遠方のほうから、草刈り機のエンジン音が唸る「ブィーン…ブィーン…」という音がずっと聞こえていて、「ひょっとしたら千代駅西側一帯は、現在は私有地で、どなたかの農地でもあるのかな…」と思っていました。


待合所付近から北西方向を見る

 樹木類で遮られて見えませんが、写真奥のほうの約750mあたり(直線距離)の場所には、三遠南信自動車道(飯喬道路)の天龍峡インターチェンジ(IC)があります。

 なお、写真中央奥のほうに白っぽい小さなものが見えていますが、よく見てみると、ビニールハウスのようなものがありました。


待合所北側の様子

 写真奥方向が南方向で、金野駅方面(平岡・豊橋方面)になります。


待合所北側から東上方を見る

 待合所の北側から東上方を眺めると、長野県道1号から千代駅の北側出入口付近まで通じている道路のガードレールが見えました。

 けっこうな急角度の道路となっています。

 上述のとおり、千代駅の北側出入口付近まで通じている道路は、千代駅に近くなるほど道幅は狭くなっていて、自動車での通行は可能ですが、千代駅の近くまで来ると、おそらく自動車を停めたり転回するスペースも無いと思っておいたほうが無難だと思います。


待合所北側から天竜峡駅方面を見る

 写真奥方向が北方向で、天竜峡駅方面(飯田・辰野方面)になります。


ホーム北端側の様子

 写真右側(東側)の斜面には、古びた小屋のようなものが見えています。

 千代駅のホーム北端側(天竜峡・飯田方)は、スロープ形状(斜路)となっていて、線路側に防護柵が付いた通路が北方向に続いています。

 その通路を写真奥のほう(北方向)へ約20mほど歩いていくと、左側(西側)に警報機などが無い第4種踏切があって、右側(東側)に、長野県道1号から千代駅の北側出入口付近まで通じている道路があります。


ホーム北端側から天竜峡駅方面を見る

 写真奥方向が北方向で、天竜峡駅方面(飯田・辰野方面)になります。

 写真右奥のほうの千代駅の天竜峡方(飯田・辰野方)には、「下村トンネル」(135/長さ 75m)があります。

 そして、その下村トンネルのすぐ西側(写真左側)には、もうひとつのトンネルが存在していて、そのトンネルこそが、かつて千代駅構内で行われていたという、天竜川の砂利を貨車に積み込むためのトンネル型のホッパー設備だった、と思われます。

 かつては、そのトンネル型のホッパー設備まで、現在の飯田線の線路の西側(写真左側)に沿うように側線が伸びていたようです。

 なお、その側線は1本だけだったとは限らず、むしろ複数あった可能性があり、また、牽引機のED21形電気機関車(別の型の電気機関車が牽引した可能性も有ります)が機回しを行うための分岐器が、写真奥のほうのあたりの本線上にあった可能性もあります。(要検証)



ホーム北端側から金野駅方面を見る

 ホーム北端側には、ホーム上に街路灯や電気関連設備のボックス、架線柱などの人工物が多くあります。


ホーム北端側から天竜峡駅方面を見る

 写真右奥のほうには、千代駅に一番近い場所にある民家さんの建物の一部が見えています。


千代駅の北側出入口付近の様子

 写真奥方向が北方向で、天竜峡駅方面(飯田・辰野方面)になります。

 千代駅の北側出入口には、長野県道1号からここまで通じている道路の終点部があります。

 写真左側には、警報機などが無い第4種踏切がありますが、かつて千代駅~三河川合駅間にて砂利運搬専用貨物列車が運転されていた時代には、多くの関係者の方達がこの踏切を渡って行き来していたことと思われます。


千代駅ホーム北端側と駅北側出入口を結ぶ通路

 写真奥方向が南方向で、金野駅方面(平岡・豊橋方面)になります。

 現在の千代駅の利用者数は、1日あたり数人程度と非常に少ないようですが、千代駅の北東側一帯には民家が多くあって、そこに住んでいらっしゃる方達は、千代駅から飯田線の電車に乗って出かけることができて便利だとは思います。

 将来的には、飯田線の飯田駅の北方の伊那上郷駅~元善光寺駅間にリニア中央新幹線の駅ができる予定です。

 その時には、ここ千代駅の利用価値が見直されて、ひょっとしたら利用者数が増えるかもしれません。


千代駅の北東側にある民家さん

 千代駅の北側出入口の北東側には、同駅から最も近くにある民家さんがあります。

 民家さんの近くには、熱帯地域の南国風景を彷彿とさせる植物が見られるのですが、まさか「バナナの木」なのでしょうか。

 ちょっと、私では詳しくはわかりません。


千代駅の北側出入口から東方向へ続く坂道の道路

 この道路を写真奥方向(東方向)へ上がって約900mほど進んで行くと、三遠南信自動車道(飯喬道路)の千代インターチェンジ(IC)のすぐ南側の長野県道1号に出ることができます。

 長野県道1号まで出る間の道中の沿線には、民家が多く存在しています。

 写真をご覧になってわかりますとおり、長野県道1号から千代駅の北側出入口までは道路が通じていますが、道幅は狭く、自動車でこちら側に来るのはやめたほうが良いと思います。

 それにしても、写真左側に見える葉っぱの大きい植物、とても目立っていますので、興味を惹かれてしまいます。


千代駅の北側出入口付近から千代駅の様子を見る

 写真奥方向が南方向で、金野駅方面(平岡・豊橋方面)になります。

 この場所から千代駅のホームまでは、線路側(西側)に防護柵(ガードパイプ)が設置された通路が通じています。

 写真左側には、千代駅の北東側にある古びた小屋のようなものが写っています。


千代駅の北側出入口付近の様子

 写真右端側には、千代駅の天竜峡方(飯田・辰野方)にある第4種踏切が見えています。

 また、第4種踏切の左側の線路の下のほうに窪み(溝)のようなものが見えていますが、これも、側線の終端部北側にあったものと同様に、給水や排水のために人工的に造られた開渠(かいきょ)と思われます。

 ここにある開渠についても、かつて千代駅構内西側にあった砂利運搬専用貨物列車の関連施設とどのような関係があったのかは、私ではわかっていません。


千代駅の北側にある第4種踏切

 この踏切には、踏切警標、警報機、遮断機などがありません。

 踏切の傍らには「危険ですから通行しないでください JR東海 飯田工務区長」と書かれたプレートが設置されていました。

 なお、写真奥のほうの踏切を渡った先にも、かつての砂利運搬専用貨物列車の関連施設の遺構であるコンクリート基礎跡が残っているようです。


千代駅の北側出入口付近から天竜峡駅方面を見る~かつてのホッパー跡(トンネル構造)

 写真奥方向が北方向で、天竜峡駅方面(飯田・辰野方面)になります。

 千代駅の天竜峡方(飯田・辰野方)には、「下村トンネル」(135/長さ 75m)があります。

 そして、その下村トンネルのすぐ西側(写真左側)には、右上の写真を見てわかりますとおり、もうひとつのトンネルが存在しています。

 右上の写真でわかるといっても、草木の向こう側にわずかながらコンクリートの建造物が見える程度で、トンネルの坑口は草木で遮られて見ることができません。

 今は人々からその存在を忘れ去られ、自然の荒廃にまかせるがままのようになっているこのトンネルも、かつて千代駅構内にあった砂利積込関連施設の遺構であり、トンネル内には、かつての砂利積込み用のシューター(滑り台のような注ぎ口)だったと推測される設備が、今も残っているようです。

 ですので、このトンネルこそ、かつて千代駅構内にあった砂利積込み関連施設の主役ともいえる、トンネル型のホッパー設備だった、ということになると思います。

 ホッパーは、採掘した鉱石や採取した砂利などを、出荷・積込まで貯めておく機能と、貨車などに積込む機能を備えた設備で、鉄道では主として貨物線や専用線、引込線の上方に造られているそうです。

 上述のとおり、ホーム上の待合所の前(西側)あたりにも、かつては主たる側線から分岐していたと思われる側線の先に何らかの人工的設備があったようですが、その場所にあった設備が、もうひとつのホッパーだったのかどうかは、現時点では私ではわかっていません。

 1957年(昭和32年)4月に撮影された、この地域の航空写真を見てみると、トンネル型のホッパー設備と下村トンネルの上面には、かつては砂利の積込み作業が行われていたと思われる敷地が広がっていて、その敷地は西側の天竜川にも通じていたように見え、また、その敷地には東側からの内陸側からも道路がつながっていたように見えます。

 以上は私の個人的見解ですので、詳細や確実なことは検証が必要です。


 私は個人的には、このような飯田線の駅近くにある、日本の産業や工業、社会の発展の歴史を物語ることのできる歴史的遺構は、維持管理に手間や費用が掛かったり、事故時の責任問題や土地などの所有の権利関係などもあって、なかなか簡単にはいかないでしょうけれども、ぜひとも近くに寄って見ることができるようにして後世に残していって欲しいなぁ、と思っています。


 私はいまだかつて、千代駅の開業当時頃の写真を見たことがありません。

 いつか見ることができれば、きっと新しい発見があることと思います。


 以上、千代駅の様子についてご紹介いたしました☆

 次の駅は、かつての伊那電気鉄道の起点駅で、三信鉄道との境界駅でもあり、また、現在は飯田線の主要駅として活躍し、観光地「天竜峡」の最寄り駅ともなっている「天竜峡駅」(てんりゅうきょうえき)になります♪

 続きはぜひ天竜峡駅のページをご覧ください♪






かつての千代駅はこんな感じだった!?
かつての千代駅の想像スケッチ図

 かつて千代駅構内において、砂利運搬専用貨物列車が発着していた、とある日の千代駅の様子を想像・イメージしてスケッチしてみたものになります。

 あくまで私個人の想像・イメージ図となりますので、実際のかつての千代駅構内とは異なります。

 千代駅の北側(天竜峡・飯田方)には、トンネル構造のホッパーがあり、側線近くにも何らかの構造物があったものと思われます。





天竜峡駅方面から千代駅に到着する213系5000番台

 天竜峡駅方面(飯田・辰野方面)から千代駅に到着する、213系5000番台(H4編成・2両編成)「普通 豊橋」行です。

 千代駅のホーム中ほどにて撮影。

 この列車は、始発の駒ケ根駅を15時08分発、天竜峡駅に16時44分着・16時46分発、終点の豊橋駅に夜の20時16分着となっていて、始発の駒ケ根駅から終点の豊橋駅まで約5時間、ここ千代駅から終点の豊橋駅まで約3時間半かけて向かいます。

 なお、下の写真は、千代駅を出発して金野駅方面(平岡・豊橋方面)へ行く様子を後追い撮影したものです。





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