飯田線(JR東海) 各駅探訪~為栗駅(為栗-温田) 
鉄道関連趣味の部屋

 このページでは特に飯田線の為栗駅(為栗-温田)周辺の様子を撮影したり撮り鉄した写真画像などを掲載しています♪
為栗駅は、天竜川、山々の樹々に囲まれ、吊り橋の天竜橋のある風景が美しく、現在は「秘境駅」として人気があります。
小和田駅、田本駅と同様に自動車で直接駅前まで来ることはできず、かつては為栗駅~温田駅間に我科駅がありました。

鉄道関連趣味の部屋♪『鉄道関連趣味の部屋』TOPへ♪  鉄道関連趣味の部屋♪~飯田線(JR東海)『飯田線』TOPへ♪  HOMEへ

平岡駅 鉄道関連趣味の部屋♪~飯田線(JR東海) 各駅探訪『飯田線 各駅探訪』TOPへ♪ 温田駅


飯田線(JR東海) 為栗駅 してぐり Iida Line
為栗駅 【豊橋起点:98.5km】  2016.08.14現在 ~☆なお、以下に掲載する写真は特筆が無い限り同じ日に撮影した写真になります。

 長野県下伊那郡天龍村平岡にある飯田線の為栗駅(してぐりえき)です。

 上の写真は、為栗駅の様子を、同駅の南西側(平岡・豊橋方)の天竜川に架かる吊り橋「天竜橋」から撮影したものです。

 為栗駅は、1936年(昭和11年)8月19日に、三信鉄道の為栗停留場として開業され、1943年(昭和18年)8月1日に三信鉄道線が飯田線の一部として国有化された時に、為栗駅に昇格したそうです。

 そして、1987年(昭和62年)4月1日の国鉄分割民営化により、現在のJR東海(東海旅客鉄道)の駅となっています。

 為栗駅には駅舎は無く、単式ホーム1面1線の無人駅となっています。

 現在、為栗駅に通じる道は長野県道430号(為栗和合線)しかなく(山道、廃道は除く)、自動車で来る場合は、為栗駅の天竜川対岸(右岸)までは来られますが、あとはそこで車をおりて天竜川に架かる吊り橋の「天竜橋」を歩いて渡ることになります。

 為栗駅は天竜川に面していて、吊り橋の「天竜橋」が見えるなど風景も良く、付近に民家は見えますが現在は無人となっているようで、いわゆる「秘境駅」として人気があり、為栗駅はJR東海の運行する急行「飯田線 秘境駅号」の停車駅のひとつとなっています。(秘境駅号に乗車される際は、停車駅について必ず事前にご確認ください。)

 現在の為栗駅は「秘境駅」として人気がありますが、かつては為栗駅のそばを竜東線(長野県道満島飯田線。龍東線や平岡線とも記述される)と呼ばれる人や馬が通れる程度の街道(小道)が通っていて、その道は、北は万古川を橋で渡って現在の温田駅方面(遠くはさらに北の田本、天竜峡方面)、南は現在の平岡駅方面へ通じていて、また、駅周辺には為栗の集落の民家が点在していて、かつての為栗駅は現在のように行き止まりの駅ではなく、人が普通に徒歩で南北に行き来できる道のかたわらにあったことになります。



為栗駅を天竜橋(南西側)から見る

 上の写真は、為栗駅の様子を、同駅の南西側(平岡・豊橋方)の天竜川に架かる吊り橋「天竜橋」から撮影したものです。

 写真奥方向が北方向で、温田駅方面(天竜峡・飯田方面)になります。

 この方向(アングル)から撮影された写真が、為栗駅の写真としてよく紹介されているのを目にします。


 為栗駅の西側の天竜川側(写真左側)は、写真のように現在はコンクリート擁壁の断崖のようになっています。

 しかし、かつての為栗駅周辺を撮影した古い写真を見てみると、驚くことに、現在このコンクリート擁壁がある場所あたりには、家屋などの建物が何軒か建っていたのです。

 当時の写真を見ると、為栗駅の周辺には何軒かの家屋が建っているのがわかり、現在とは違って、かつてはこの場所に鉄道の駅を建設するのには十分な理由があったことがわかります。

 しかしながら、為栗駅の西側下方の天竜川側の崖部分にあった民家は、当駅の南方約3.2kmあたり(直線距離)の天竜川に平岡ダムが建設(1938年/昭和13年着手~1951年/昭和26年11月竣工)されることにより天竜川の水位が上昇することとなったため、移転を余儀なくされてしまったそうです。

 また、為栗駅のそばの天竜川左岸を通って平岡~為栗~我科~温田~田本~門島~唐笠~金野~千代を結んでいた、人と馬が通れる程度の街道だった竜東線(長野県道満島飯田線)も、天竜川の水位上昇により水没不通区間が生じ、平岡~為栗~温田~天竜峡間の人々の往来が寸断されることとなり、この地域の過疎化がすすむ要因のひとつとなっています。

 1948年(昭和23年)に撮影された、この地域の航空写真を見てみると、かつての竜東線と思われる道は、現在のコンクリート擁壁がある場所か、さらにその下方の現在の天竜川の水面下を通っていたようです。

 その航空写真と為栗駅周辺の風景を撮影した古い写真を見比べてみると、おそらく上の写真の天竜川の水面の高さあたりを竜東線が通っていたようには見えます。

 そのほか、その航空写真を見てみると、現在は為栗駅への唯一のアクセス通路となっている吊り橋の天竜橋が架かっている場所には、橋らしきものは何ら架けられておらず(初代「天竜橋」は1952年/昭和27年に架橋)、当時の為栗駅は、当駅のすぐそばを通る竜東線と、当駅東側の天竜川左岸側(山側)からのアクセス通路(山道など)だけで、基本的には為栗駅へのアクセス手段は十分足りていた、ということがいえそうです。

 なお、かつてこの場所に天竜川の左岸と右岸を渡る橋が無かった時代には、為栗には私設の渡船があったそうです。(あった時期は不詳)


 為栗駅は、1936年(昭和11年)8月19日に三信鉄道の為栗停留場として開業されていますが、わずかその2年後には平岡ダム建設が着手されることになり(建設起工式は1940年/昭和15年11月13日)、当時このあたりに暮らしていた方々は数年の間に、とてつもなく大きな生活環境の激変を体験されたことになります。

 佐久間ダムの建設と同じく、平岡ダムの建設も飯田線のみならず周辺住民の方々の生活に多大な影響を与えたことがよくわかります。


天竜橋の西側入口の様子

 為栗駅の南西側(平岡・豊橋方)の天竜川に架かる吊り橋「天竜橋」の、西側入口(天竜川右岸側)の様子です。

 長野県道430号(為栗和合線)を通って自動車でこの場所までは来れますが、ここからは自動車の進入はできませんので、歩いて天竜橋を東方向(天竜川左岸側)に渡って、為栗駅を目指すことになります。

 ここまで来れば、この場所からは為栗駅はもう間近で、上の写真の中央下部の奥のほうに為栗駅が見えています。

 飯田線の秘境駅のうちでも、小和田駅と田本駅は為栗駅と同じく自動車で駅前までアクセスするのは現在は不可能ですが、両駅と比べれば、為栗駅は比較にならないほどアクセスがいいです。

天竜橋の西側入口付近から東方向を見る

 天竜橋の西側入口付近には、「天竜橋」と書かれた標柱が設置されていました。(写真中央あたり)

西側から見る天竜橋の様子

 写真左奥のほうの天竜川対岸(左岸)に為栗駅があります。

 現在の天竜橋は、1968年(昭和43年)に造られたもののようで、それ以前は1952年(昭和27年)に初めてこの場所に「天竜橋」なるものが架橋されていたようです。

 それが正しいとなると、為栗駅が開業されたのが太平洋戦争前の1936年(昭和11年)8月19日ですから、為栗駅が開業後も、戦後の1952年(昭和27年)までの約16年間に渡ってこの場所には天竜川の左岸と右岸を行き来できる橋が無かったことになります。

 その間は、天竜川の左岸の為栗地区と右岸を連絡する私設の渡船があった可能性はあります。(渡船があった時期は不詳)

 それらのことから、開業当時の為栗駅は、上述のとおり、当駅のすぐそばを通る竜東線と、当駅東側の天竜川左岸側(山側)からのアクセス通路(山道など)だけで、基本的には為栗駅へのアクセス手段は十分足りていた、ということがいえそうです。

 この場所に天竜橋が架けられることになったのは、おそらく、平岡ダムが1951年(昭和26年)11月に竣工し、為栗駅側の天竜川左岸にあった道の竜東線が水没してしまうことになって為栗駅周辺へのアクセスが格段に悪化してしまうことを防ぐのが最大の理由だったと思われます。

 山側(東方向)からの為栗駅へのアクセス道(山道)はあったようですが、その道のみを為栗駅へのアクセス手段としていた場合、為栗駅は小和田駅と同等かそれ以上に鉄道以外の手段でのアクセスが困難な駅になっていた可能性があります。


天竜橋の西側出入口付近から見える為栗駅

 天竜川対岸の樹々の緑の中に為栗駅が見えています。

 初めて訪れる駅が見えてきた時は、いつもやっぱりワクワクするものです。

天竜橋から見える万古川橋梁と為栗駅

 上の写真は、為栗駅の南西の天竜川に架かる吊り橋「天竜橋」から北方向に見える風景を撮影したものです。

 写真に見える雄大な水面は天竜川になります。

 写真左奥(北方向)のほうに飯田線の万古川橋梁(まんごがわ-/長さ 106m)が見え、写真右奥のほうに為栗駅が見えています。


 現在のこの場所あたりの天竜川は、為栗駅の南方約3.2kmあたり(直線距離)の天竜川に建設され1951年(昭和26年)11月に竣工した水力発電用の「平岡ダム」のダム湖のような状態となっています。

 そのため、天竜川と言っても、ここの川の流れはあたかも湖(みずうみ)のように水面がゆったりしたものとなっています。

 かつてのこの辺りの風景を撮影した古い写真を見てみると、天竜川の水位は現在よりも低く、川幅ももっと狭い渓流のようなイメージの川となっていました。

 かつて天竜川水運が隆盛だった頃は、為栗地区には川港があって荷物の積み下ろしが行われていたようで、舟宿もあった可能性があります。

 また、この吊り橋「天竜橋」のように、かつて天竜川の左岸と右岸を渡る橋が無かった時代には、為栗には私設の渡船があったそうです。(あった時期は不詳)


 上述のとおり、かつては竜東線(龍東線/県道満島飯田線)と呼ばれた人と馬が通れる程度の街道(小道)が、為栗駅の西側下方の天竜川沿いを通っていて、為栗駅から飯田線の万古川橋梁の下方まで歩いて行けて、さらに万古川に架かる万古川橋(1900年/明治33年7月架橋)を渡って温田方面へと通じていたそうです。

 1948年(昭和23年)に撮影された航空写真や為栗駅周辺の風景を撮影した古い写真を見てみると、かつての竜東線は、おそらく上の写真の天竜川の水面の高さあたりを通っていたようには見えます。

 1936年(昭和11年)4月26日に三信鉄道が温田駅から満島駅(現在の平岡駅)まで開通すると、鉄道利用者が増加し、このあたりの竜東線を利用する人がほとんどいなくなったのだそうです。

 その後、竜東線は、平岡ダムが1951年(昭和26年)11月に竣工(着手は1938年/昭和13年)したことによる天竜川の水位上昇が決定的な理由となり、1950年(昭和25年)に廃止され、現在の長野県道1号のルートに変更されたそうです。

 かつてこのあたりを通っていた竜東線は、平岡ダムの建設による水没や荒廃による自然消滅などにより多くが消失してしまっていますが、一部は現在も道路として使用されていると個人的には考えています。

 その竜東線の名残として残っていると思われる区間は、この付近では、飯田線の為栗駅と温田駅の間にかつてあった我科駅(がじなえき。1943年/昭和18年8月1日廃止)の南側あたりから温田駅までを結ぶ車幅が狭い道路(天龍村道?)で、かつての竜東線だったのではないか、と個人的には推測しています。(要検証)


天竜橋から「信濃恋し」のある南方向を見る

 写真奥方向が南方向で平岡駅方面(中部天竜・豊橋方面)になります。

 写真の奥のほうの、為栗駅の南西側を流れる天竜川は上空から見るとS字形のように大きく南北に屈曲していて、「信濃恋し」と呼ばれることで知られています。

 「信濃恋し」と呼ばれるようになった経緯にはいくつかのエピソードや昔話があるようですが、天龍村役場の公式サイトの観光情報によると、かつて平岡ダムができる以前に、筏に乗った船頭が飯田方面からこの天竜川のS字の急流に入った際に、筏の向きがあたかも「信濃の国が恋しい」と訴えるがごとく、今来た方向の上流方向へ否応なく向いてしまい船頭泣かせだったことから、いつしか「信濃恋し」と呼ばれるようになったそうです。

天竜橋から同橋東側入口付近の様子を見る

 写真の天竜橋を渡った先の場所が、為栗駅がある天竜川の左岸側の地になります。

 これまで、かつては為栗駅のそばを通る人と馬が通行可能な道の竜東線があったと述べてきていますが、上の写真の天竜橋を渡った先にある為栗駅に通じる現在の小道が、果たしてかつての竜東線そのものであるかどうかは不明です。

東側から見る天竜橋の様子

 写真右方向が北方向で、為栗駅がある方向になります。

天竜橋の東側入口付近から為栗駅方面を見る

 天竜橋を天竜川の左岸(東側)に渡ると、北方向の為栗駅へ向けて小道が整備されています。

 為栗駅は、写真の小道を写真奥のほう(北方向)へ約150mほど進んだところにあります。

 繰り返しになってしまいますが、果たしてこの為栗駅まで続く小道が、かつての竜東線をそのまま再整備したものであるかどうかは、現時点では不明です。

見えてきた為栗駅

 吊り橋の天竜橋を渡って、小道をしばらく北方向へ歩いていくと、視界がひらけ、為栗駅と飯田線の線路が見えてきます。

 写真奥方向が北方向で、温田駅方面(天竜峡・飯田方面)になります。

 個人的には、このような飯田線の線路と、人が歩ける道の間にフェンスや柵などさえぎるものが無い、この開放感と親近感溢れる飯田線の鉄道風景がとても気に入っています。


為栗駅へ向かう小道の途中で南方向を振り返る

 さきほど渡ってきた、天竜川に架かる吊り橋「天竜橋」が見え、天竜川と樹々の緑が織り成す美しい風景を目にすることができます。

為栗駅の南側にある為栗第5トンネル

 為栗駅のすぐ南側(平岡・豊橋方)には、「為栗第5トンネル」(80/長さ 101m)があります。

 写真右奥のほうに、吊り橋の天竜橋が見えています。

 為栗駅周辺の風景も他の飯田線の駅と同様に、自然と人工物が適度に調和した情緒を醸し出していて、鉄道模型Nゲージのレイアウト作成の際には大いに参考になりそうな気がします。


天竜川と万古川橋梁

 為栗駅の近くから北西方向に見える風景を撮影したものです。

 写真中央奥やや右側に万古川橋梁(まんごがわきょうりょう)が見えています。


 平岡ダムが1951年(昭和26年)11月に竣工する以前は、この場所あたりから、写真に見える飯田線の万古川橋梁の北側下方に架かっていた万古川橋(1900年/明治33年7月架橋)を渡って、さらに北のほうの現在の温田駅方面へ続く竜東線(長野県道満島飯田線)と呼ばれる、人と馬が通れる程度の街道(小道)が天竜川の左岸(写真右側)に沿って存在していました。

 竜東線と飯田線の万古川橋梁が一緒に写っている当時の古い写真と現在の現地の様子を比較してみると、万古川橋梁付近を通っていたかつての竜東線は、上の写真の天竜川の水面と同じくらいの高さか、そのさらに下のほうを通っていたと思われ、平岡ダムの竣工により、上の写真右奥のほうの天竜川左岸を通っていたかつての竜東線は、天竜川の水面下に沈むか、自然荒廃により消滅してしまっていて、ここの為栗地区と万古川を渡った先の北方の我科・温田地区は、現在は徒歩での行き来は途絶されています。

 なお、竜東線が自然荒廃により消失してしまった、という言い方は、私にとっては「普通の人は通らない、あるいは通れない」という意味でして、竜東線の痕跡は残っている可能性があり、安全の保証は当然全くできませんが、調査目的での竜東線の痕跡の探索は不可能ではないと思っています。


 かつての竜東線は、明治末期から1932年(昭和7年)頃までは、人馬による養蚕の繭(まゆ)の輸送が盛んだったそうです。

 そのほか、竜東線では、木炭、薪、肥料、食料、酒、日用品などの雑貨が馬により運ばれたそうです。


 また、為栗駅の北北東約600mあたり(直線距離)の万古川近くには、かつて万古集落があり、現在、為栗駅の北東側に残っている民家(無人)の脇を通る山道を歩いて、為栗駅から万古集落までは行き来ができたようです。

 しかしながら、万古集落は、どうやらここの為栗の集落と同様に、平岡ダムの建設による天竜川および万古川の水位上昇により水没する可能性があるということで、全民家が移転を余儀なくされ、現在は廃墟となってしまったようです。

 なお、現在でも、為栗駅の線路脇を歩いて万古川橋梁手前で為栗第6トンネルの上方を通って万古集落跡へ到達する、山中のルートが生きているようです。(危険ですが歩いて通行可能)



為栗駅の南側にある小道の為栗橋と飯田線の為栗橋梁

 写真左側に見える小道の橋が「為栗橋」(してくりはし)、右側に見える飯田線の橋梁が「為栗橋梁」になります。

 写真奥方向(北方向)が温田駅方面(天竜峡・飯田方面)で、為栗駅のホームが見えています。

 写真に見える小道の「為栗橋」(してくりはし)は、1963年(昭和38年)3月に造られたもののようで、竜東線が平岡ダムの建設(1951年/昭和26年11月竣工)により寸断、消滅してしまう前からあったものではなさそうです。


 ちなみに、このあたりの地域ではたまに見かけることなのですが、ここの地名は「してぐり」(為栗)と「く」に濁点が付いて「ぐ」になっているのですが、何故かここの小道の橋の名前は「してくりはし」(為栗橋)と橋名板(きょうめいばん)に刻まれ、意図的に濁点(だくてん/にごり)が取り除かれた橋の名称となっています。

 本来ならば、この小道の橋の名は「してぐりばし」と濁点が2ヵ所付いた名称になるのが普通かな、と思うのですが、実は理由があって濁点が意図的に外されているのだそうです。

 濁点を敢えて意図的に外すのは、「川が氾濫したり、洪水になることで川が濁(にご)らないように」、すなわち川の氾濫や洪水、川の汚染などが起きないように、という生活の安全と安寧への願いが込められているのだそうです。

 ただ、このような風習は、全国的に一般的であるということでは無いようです。


 また、1948年(昭和23年)に撮影された、この地域の航空写真を見てみると、高度は明確にはわかりませんが、写真に見える為栗橋のあたりで、為栗駅へと向かう小道と、万古川橋梁のほうへ向かう竜東線と思われる小道が分岐していたように見えます。


南側から見る為栗駅のホームの様子

 写真奥方向が北方向で、温田駅方面(天竜峡・飯田方面)になります。

 写真奥のほうに民家が1軒見えますが、現在は無人となっているそうです。


ホーム出入口付近の様子

 ホーム出入口はスロープ(斜路)になっています。

 写真左端奥のほうには、とてもわかりづらいですが「和知野川周辺観光施設案内」の看板が立てられています。

 和知野川(わちのがわ)は、為栗駅の西方約500mあたりのところで天竜川に合流する、天竜川の支流の川(一級河川/延長 29.243km)です。

 案内看板には、「和知野川キャンプ場」(徒歩15分)と「お食事処 ふるさと味覚小屋」(徒歩10分)が紹介されています。


ホームに上がった場所から平岡駅方面を見る①

 写真奥方向が南方向で、平岡駅方面(中部天竜・豊橋方面)になります。

 写真右奥のほうに、現在、唯一の為栗駅へのアクセス道となっている吊り橋の天竜橋が見えています。

 なお、「唯一のアクセス道」と書きましたが、それは「一般的に」、「常識的に」と付け加えて書くのが厳密には正しいのかもしれません。

 なぜならば、廃道探索をされるようなチャレンジャー精神のある方ならば、今や廃道となったかつての竜東線づたいであったり、泰阜村(やすおかむら)方面から万古川づたいや、為栗駅の南東方向にある谷京峠(やきょうとうげ)の山中を通って、ここ為栗駅へ到達することができる可能性が有り得るからです。

 しかし、天竜橋を通らない、それらの為栗駅へのアクセス方法は、当然のことながら危険やリスクを伴うものとなっています。

ホームに上がった場所から平岡駅方面を見る②

 写真奥方向が南方向で、平岡駅方面(中部天竜・豊橋方面)になります。

 山々の樹々や天竜川に囲まれた駅、トンネルや吊り橋の見える風景が、意図せずうまく調和しているようでとても感慨深く、ここ為栗駅が秘境駅として人気があることがうかがえます。

 写真右奥のほうの天竜川は、前述のとおり、上空から見るとS字形のように大きく南北に屈曲していて、「信濃恋し」と呼ばれることで知られています。



ホーム南端側から平岡駅方面を見る

 写真奥方向が南方向で、平岡駅方面(中部天竜・豊橋方面)になります。

 写真左側(東側)に見える飯田線の橋梁が「為栗橋梁」で、右側に見える天竜橋へと続く小道の橋が「為栗橋」(してくりはし)になります。

 写真奥のほうには、為栗駅のすぐ南側(平岡・豊橋方)にある「為栗第5トンネル」(80/長さ 101m)の出口が見えています。

ホーム南端側から温田駅方面を見る

 写真奥方向が北方向で、温田駅方面(天竜峡・飯田方面)になります。

 為栗駅は、単式ホーム1面1線の駅で、ホームは線路のカーブにあわせて緩やかな曲線形状となっています。


ホーム上にある待合所

 待合所は、屋根と側壁があるものの、出入口にドアや扉などが無いタイプの開放型となっています。

 待合所の外壁には、切符回収箱が設置されているのが見えています。

 また、軒下にはスピーカーが付いていますので、他の飯田線の駅で経験したことがあるように、電車が遅れていたり、万一落石などで列車が運休になってしまった時は、案内放送が流れることとは思いますが、果たしてどうでしょうか。

 そのほか、側面の窓ガラスの右上には「警察官立寄所」の表示があり、防犯上、安心ではありますが、果たして立ち寄る頻度はどのぐらいなのでしょうか。

待合所内部の様子

 待合所内部には、長椅子(ベンチ)、時刻表、普通運賃表などが設置されていて、長椅子の下には凍結防止剤および融氷雪用と思われる塩化カルシウム(粒状)の袋も置かれていました。

ホーム上の待合所付近から温田駅方面を見る

 写真奥方向が北方向で、温田駅方面(天竜峡・飯田方面)になります。

ホーム上の待合所付近から平岡駅方面を見る

 写真奥方向が南方向で、平岡駅方面(中部天竜・豊橋方面)になります。

 写真右奥のほうに、天竜川に架かる吊り橋の天竜橋が見えています。

 為栗駅の古い写真では、上の写真とほぼ同じアングルで撮影したものと思われる写真を見ることができます。(上の写真では手前側の電柱が写っていませんが)

ホーム脇にある為栗駅(してぐり)の駅名標

 普通の駅ならホーム上に駅名標が設置されているのですが、ここ為栗駅の駅名標は、ホームの幅が狭いためか、ホームの上ではなく、ホーム外のホーム脇に設置されていました。

 為栗駅の駅名の由来は、養蚕関連の「してぐる」、四方栗山の意味、湿地を意味する「シト」の変化と岩礁を意味する「クリ」が合わさったもの、など、様々な諸説があるようです。

 Wikipediaでは、戦前にこの辺りに存在していた為栗と呼ばれた集落名に由来し、「為」(して)は天竜川の水を意味する「湿」(しと)が変化したもの、「栗」は「刳」(えぐる)に由来し、「天竜川によってえぐられた場所」という意味とされています。

 なお、為栗駅の駅名は、Wikipediaでは難読の駅名として紹介されています。


駅名標のある場所あたりから温田駅方面を見る

 写真奥方向が北方向で、温田駅方面(天竜峡・飯田方面)になります。

 写真右上のほうに見える民家は、現在は無人となっているようで、現時点では為栗駅の周囲に住んでいる人は居ない状態となっているようです。


駅名標のある場所あたりから平岡駅方面を見る

 写真奥方向が南方向で、平岡駅方面(中部天竜・豊橋方面)になります。

ホーム北端側の様子

 写真奥方向が北方向で、温田駅方面(天竜峡・飯田方面)になります。

 写真右側の線路脇に見える石垣の部分には、為栗駅の北東側にある民家への通路となっていたものと思われる木の板がたてかけられています。

 この先の写真奥のほうには、約100mほど先に「為栗第6トンネル」(81/長さ 179m)があり、その先に万古川橋梁(長さ 106m)が、さらにその先に「我科第1トンネル」(82/長さ 652m)があります。

 ホームの左奥側(写真左奥側)のほうには空き地が見えていますが、1948年(昭和23年)に撮影された航空写真を見てみると、写真左奥のあたりには、かつては民家と思われる建物が2軒ほど建っていたようで、建物脇に人が歩ける小道もあったように見え、その小道は、かつて写真左下のほうの天竜川沿いを通っていた竜東線の本道に通じていたようです。

 なお、上述のとおり、この先の写真奥のほうの飯田線の線路脇を歩いて万古川橋梁手前で為栗第6トンネルの上方を通って、万古集落跡方面や、当駅の南東方向にある谷京峠方面(やきょうとうげ)へ到達する山中のルートが、現在でも生きているようです。(危険ですが歩いて通行可能)

ホーム北端側から平岡駅方面を見る

 写真奥方向が南方向で、平岡駅方面(中部天竜・豊橋方面)になります。

 ホームの右側(写真右側)には、人が歩けそうな空間(スペース)が見えています。

 おそらく、本来は為栗駅の北東側にある民家と北西側にあった民家の方が、為栗駅前まで行き来する通路として使用していたスペースだとは思いますが、現在では、当駅の北西方向にある万古川橋梁付近を経由して万古集落跡や谷京峠方面(谷京山)へ向かう屈強な方々の登山ルートなどとして稀に使用されているようです。

 その他、JR東海による為栗駅の維持管理、補修などのために使用されているスペースかもしれません。


為栗駅の北東側に見える民家

 写真右側には民家が見えますが、現在は無人となっているようです。

 上述のとおり、為栗駅の北北東約600mあたり(直線距離)の万古川近くには、かつて万古集落があり、写真に見える民家の脇を通る山道を歩いて、為栗駅から万古集落までは行き来ができたようです。

 また、その山道は、為栗駅の南東方向にある谷京峠方面(谷京山)にも通じていたようです。





かつての為栗駅はこんな感じだった!?
かつての為栗駅の想像スケッチ図

 かつての、とある日の為栗駅の様子を想像・イメージしてスケッチしてみたものになります。

 あくまで私個人の想像・イメージ図となりますので、実際のかつての為栗駅周辺の様子とは異なります。

 かつての為栗駅の周辺には、家屋などの建物が何軒か建っていたと思われます。

 また、かつての為栗駅の西側下方の天竜川側には、天竜川左岸を通って平岡~為栗~我科~温田~田本~門島~唐笠~金野~千代を結んでいた、人と馬が通れる程度の街道だった竜東線が通っていたものと思われます。

 為栗駅周辺の様子を撮影した古い写真を見てみると、竜東線は飯田線の万古川橋梁の下方を通って、同橋梁の北側下方で万古川に架かっていた万古川橋(1900年/明治33年7月架橋)に通じていて、その万古川橋を渡ることで、為栗・平岡方面と我科・温田方面を歩いて行き来できたようです。





為栗駅を通過する373系 特急「伊那路」

 為栗駅を通過して平岡駅方面(中部天竜・豊橋方面)へ行く、373系(F6編成・3両編成)特急「伊那路」(飯田発→豊橋行)です。

 為栗駅の南西側にて撮影。

 この特急「伊那路」は、これから約2時間かけて、終点の豊橋駅まで向かうことになります。





平岡駅方面から為栗駅に到着する213系5000番台

 為栗駅の南方(平岡・豊橋方)にある「為栗第5トンネル」(80/長さ 101m)を抜けて、平岡駅方面(中部天竜・豊橋方面)から為栗駅に接近中の、213系5000番台(H12編成・2両編成)「普通 天竜峡」行です。

 為栗駅の南西側にて撮影。

 なお、下の2枚の写真は、為栗駅に停車中の様子(左下)と、為栗駅を出発して温田駅方面(天竜峡・飯田方面)へ行く様子(右下)を撮影したものです。





かつて飯田線の為栗駅~温田駅間にあった我科駅(がじなえき)跡
我科駅(がじなえき)跡

 上の写真は、飯田線の「我科踏切」(がじなふみきり/101K280M)から南方向に見える、かつて温田駅~為栗駅間にあった「我科駅(がじなえき)」跡を望遠で撮影したものです。

 写真奥のほうに、雑草が生い茂りながらも石垣のような部分が線路左側に見えると思いますが、その場所がかつての我科駅跡(豊橋起点 100.9km)になります。

 写真奥方向が南方向で、為栗駅方面(中部天竜・豊橋方面)になります。


 かつてこの場所にあった我科駅(がじなえき)は、1936年(昭和11年)4月26日に三信鉄道の停留場として開業され、開業当時は2.5坪の上屋(待合所)を有する木製の乗降場だったともいわれています。

 かつての我科駅が木製の乗降場であったということであれば、ひょっとしたら現在残っている石積みの部分は駅の乗降場へ至るまでの通路だったり、三信鉄道建設時からあった擁壁(土留め)だった可能性もありうるわけですが、詳細は不明です。

 ただ、我科駅の遺構と思われる石積みの部分の為栗方の南端側と温田方の北端側は、ともにスロープのように斜路となっていて、手のひらを返すようなことをいいますが、この石積みの石垣部分は我科駅のホームとして使用されていた可能性もかなり高くなっています。

 ですので、開業当初は木製の乗降場だったものが、廃止されるまでの短い期間に石積みの頑丈なものに替えられた可能性も有りますし、単純に当時の資料の書き間違い(待合所の上屋が木製だったなどの勘違い)の可能性もないわけではなく、ここはどなたかの証言やさらなる研究が待たれるところではあります。

 また、当時の我科駅への入口がどの場所にあって、当時の人がどのような経路で駅まで来ていたのかも詳しくわかっていませんが、1948年(昭和23年)に撮影された航空写真を見た感じでは、当駅の東西南北どちらからでもアクセスできたように見えなくもありません。


 我科駅は、当時の泰阜村(やすおかむら)が設置費を補助したり、駅近くにある泰阜変電所や周辺住民の請願があったことにより設置の実現をみたようです。

 しかしながら、1941年に太平洋戦争が始まり、1943年(昭和18年)8月1日に三信鉄道線が国有化されて飯田線の一部になると、国有化と同時に我科駅は同年8月1日に廃止されてしまいました。

 廃止となった理由は、当時の我科駅は温田駅から約1.3kmと距離が近いから(為栗駅からは約2.4km)という理由だといわれています。

 我科駅が廃止となった1943年(昭和18年)8月1日は、日本は太平洋戦争の真っただ中にあり、時はすでにミッドウェー海戦の大敗により日本が敗戦へ向かっていた時期なので、我科駅が廃止となったのは、そういった日本が戦争経済下にあったことも影響しているのかもしれません。

 なお、1943年(昭和18年)度に日本国内各地で行われた私鉄買収国有化は、大東亜戦争(太平洋戦争)完遂のための国家総動員法などに基づく強制的なものだったそうですが、飯田線の元となった当時の豊川鉄道、鳳来寺鉄道、三信鉄道、伊那電気鉄道の4鉄道は、巨額の建設費のため運賃が高くて需要が伸びず、不況もあって経営が芳しくなかったようで、1939年(昭和14年)4月には飯田市長を会長とする「四鉄道国営促進下伊那促進期成同盟会」が結成されて10月には鉄道省に陳情を行うなど、その後も活発に地元による国営化を目指す活動が行われていたそうですので、当時の飯田線への国有化は、すべてが国による強制的なものだったとはいえないようです。

 ちなみに、三信鉄道(全線)の国による買収価格は、当時の¥16,354,924円だったそうですので、正確な数値は出せませんが、1943年(昭和18年)当時の1円の価値が現在の2,000円の価値と同等だったと仮定すると、買収価格は現在の約¥330億円になります。

 開業からわずか約7年3ヵ月で廃止されてしまった我科駅ですが、その後は駅として復活されることはなく、現在に至っているようです。


 2023.10.02現在 ~以下特筆が無い限り同じ日です。


我科駅跡周辺の様子

 写真左側に見える踏切が我科駅跡の北方(温田・飯田方)約100mあたりのところにある「我科踏切」で、写真右側には「泰阜変電所」が見えています。

 我科駅跡は、上の写真に見える泰阜変電所の向こう側あたりにあります。


我科踏切

 我科駅跡の北方(温田・飯田方)約100mあたりのところにある我科踏切は、踏切警標だけが設置され、警報機と遮断機が設置されていない第4種踏切となっています。

 そのため、横断時は左右確認などした上で、十分注意して渡る必要があります。

 なお、この我科踏切を渡った先の直線方向は雑草が生い茂っていますが、歩いて通行可能なようで、また、踏切を渡って写真右上のほうに見える高い場所へ上がって行く小道もあったように見えました。


我科踏切の踏切名プレート

 「我科」を「がじな」とすぐに読める人は、かなり漢字が得意な方ではないでしょうか。

 私は読めませんでした。

 この「我科踏切」は、現在は豊橋起点で101km280m(101K280M)の場所にあるようです。


我科踏切から西方向を見る

 写真中央奥あたりには、我科踏切の下のほうにある「八幡社」が見えています。

 八幡社のさらに下のほうには、天竜川が流れていて、左岸側には自動車が通行可能な温田駅方面へ通じている道路が整備されています。

 その道路は、かつて平岡~為栗~我科~温田~天竜峡を結んで人と馬が通っていた竜東線と呼ばれた街道(小道)を転用したものだ、と個人的には推測しているのですが、現時点では詳細不明です。

 写真にも何軒か民家が写っていますが、このあたりには今も民家がそれなりに建っていて集落のようになっています。

 なお、写真右方向が北方向で、温田駅方面(天竜峡・飯田方面)になります。


我科踏切の北方にある我科第6トンネル

 我科踏切の北方(温田・飯田方)約100mあたりのところには、「我科第6トンネル」(87/長さ 182m)があります。

 上の写真は、我科踏切から北方向に見える風景を撮影したもので、写真中央奥のほうに「我科第6トンネル」の入口が見えています。

 次の温田駅は、この場所から約1.2kmあたり先のところにあります。


 以上、為栗駅と、かつてあった我科駅跡の様子をお伝えいたしました☆

 次の駅は温田駅(ぬくたえき)になりますので、詳細は次のページをぜひご覧ください♪





平岡駅 鉄道関連趣味の部屋♪~飯田線(JR東海) 各駅探訪『飯田線 各駅探訪』TOPへ♪ 温田駅


鉄道関連趣味の部屋♪『鉄道関連趣味の部屋』TOPへ♪  鉄道関連趣味の部屋♪~飯田線(JR東海)『飯田線』TOPへ♪  HOMEへ