飯田線の小和田駅下方にあるミゼットはどこから来てなぜ放棄されたのか 
鉄道関連趣味の部屋

 このページでは、飯田線の秘境駅として知られる小和田駅(こわだえき)の下のほう(北側)に
遺棄されたダイハツ ミゼット3台の様子を撮影した写真を掲載、ご紹介しています♪
現在では小和田駅周辺から自動車やオートバイで他の集落や町へ行き来できる道は無く、ミゼットがどこからやってきて、
誰が何の目的で使用していたのかなどについては明確にわかっていないようで、未解明の謎となっています。
このページでは、そんなミゼットがどうやってここへ来たのか、なぜ遺棄されたのかについて独自見解で検証しています☆
なお、以下の記述は私個人の独自調査によるもので、誤りがある場合もありますのでご承知おきください。

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小和田駅(小和田-中井侍)
こわだ


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愛の椅子
結婚式場跡
製茶工場跡
住居跡
遺棄された
ダイハツ ミゼット
小和田池之神社 高瀬橋 天竜川の
浚渫船



遺棄された2台のダイハツ ミゼット
住居跡東側に遺棄された2台のダイハツ ミゼット

 現在は飯田線の秘境駅として知られる小和田駅で下車して、駅前西側にある「散策道」を下りて行くと製茶工場跡と住居跡があり、住居跡を東のほうへ少し行くと向かって右手側(南側)の少し小高いところに、この2台のダイハツ ミゼット(MP型)が遺棄されています。

 わたしが現時点で知るところでは、小和田駅周辺には遺棄されたダイハツ ミゼットがこの場所に2台、天竜川沿いの住居跡北東側に1台、そして他の方の情報では、かつて小和田駅の南西方向へ続いていた小道の近くにミゼットらしき廃車が1台、計4台の遺棄されたミゼットがある可能性があります。(3台は確実)

 今回わたしが小和田駅を訪れて出会うことができたミゼットは、巷でもよく知られている3台でしたので、このページではその3台についてご紹介させていただきたいと思います。

 これら3台のミゼットは、小和田駅を訪問された他の多くの方々により紹介され、テレビマスコミにより紹介されることもあり、現在ではその存在がとてもよく知られていて、小和田駅を訪れる際は必ず見ておきたい見どころのひとつともなっています。

 そして、現在は小和田駅が自動車やオートバイで直接訪れることのできない秘境駅となってしまっているため、このミゼットたちが、どのようにしてここ小和田の地へやって来たのか、誰が何の目的で使用していたのか、なぜこの地に放棄されてしまったのか、などの未解明な謎の部分があり、そのことがこのミゼットたちをより一層ミステリアスな存在にさせ、なおかつ小和田駅の秘境駅としての存在感を高めているのだろうと思います。

 以下では、そんなミゼットたちの謎を自分なりに調べてみた事柄や個人的見解を交えながら、これらのミゼットをご紹介させていただきたいと思います。


 小和田駅(こわだえき)は、三信鉄道により1936年(昭和11年)12月30日に開業され、開業された後は、駅周辺に商店や製茶工場、鉄道に携わる人々の宿舎などができ、しばしの繁栄を見せたそうです。(※小和田駅開業前の昭和8年頃には小沢商店がすでにあったという情報有り)

 しかし、小和田駅開業後のわずか17年後の1953年(昭和28年)に佐久間ダムが着工されることになり、同ダムは1956年(昭和31年)10月に完成し、その結果、小和田駅周辺の小和田地区は非常に交通アクセスの悪い場所(特に自動車)になってしまい、小和田駅下の天竜川近くにあった10軒程度の建物(民家、商店、工場などの分類は不明)も水没することとなり、同駅周辺の人々の往来を激減させてしまったようです。

 佐久間ダム建設中の1955年(昭和30年)には、ダム湖(天竜川)に水没してしまう296世帯全ての補償交渉が妥結し、1955年(昭和30年)12月には佐久間ダムの湛水(たんすい/水を貯めること)が開始されていますので、その頃には、かつて小和田駅下(北側)の天竜川沿いにあって現在は水没してしまった10棟程度の建物の所有者も、ここ小和田の地から離れて行ったものと思われます。

 佐久間ダム完成前は、小和田駅の西方約1km(直線距離)の天竜川対岸(右岸)に、学校もあったといわれる比較的規模の大きい佐太集落があり、その佐太集落(愛知県側の旧富山村)と小和田駅を行き来できた天竜川に架かる佐太橋(小和田駅の北西約500m。大正12年竣工)があったようです。

 その佐太集落から佐太橋を経由して小和田駅までは、約1.5km、徒歩で約20分の距離ですので、佐太集落の人々も小和田駅を利用したでしょうから、小和田駅周辺が、ささやかながらもそれなりの賑わいと活気を見せた時期があったのは間違いないものと思われます。(佐太集落から次に近い飯田線の大嵐駅は約3.5km、徒歩約45分)

 しかし、その佐太橋はダム湖(天竜川)に水没することになってしまい、佐太集落と小和田の人々の往来は途絶えることになり、また、小和田の集落にとって一番近い距離にあり他の集落と行き来するのに最も使いやすかったであろうその佐太橋を失ったことが、小和田駅周辺に残された方々にとっては致命的となったように感じます。

 佐久間ダム完成後は、小和田から天竜川の対岸(北側の右岸)に容易に行くことのできる橋が架けられず、飯田線以外の手段で小和田地区から別の集落や町まで行くのが大変だったことが、同地区の陸の孤島化に拍車をかけたものと思われます。

 小和田地区と天竜川対岸を自動車で行き来できる橋が近くに架けられていたら、小和田駅周辺の運命は全く違うものになったかもしれません。(それでも長い目で見た場合、現在の山村の過疎化を見ると結果として同じ運命だったかも)

 しかし、小和田の人々にとって大変ありがたい同地区から天竜川対岸への架橋はなされなかった、おそらくそれは小和田地区に残った数軒の住居や製茶工場のために、わざわざ巨額の公費を投じて橋を架ける必要はない、と当時の役人達が判断したからではないでしょうか。

 つまり、せっかく小和田駅があるのだから当時の国鉄飯田線を使えばいい、という、いかにも当時の役人らしい考え方に他ならないのではないか、といった穿った見方もできるかもしれません。

 もちろん、費用対効果、税金の投入といった観点からは、そのような橋を架けなかった判断が間違っていたといえるわけでなないと思います。


 2022.06.29現在



2台のミゼットのうち東側にあったミゼット「MP4後期型」

 こちら側のミゼットは、ドアが無かったり、座席部分が朽ち果てているとはいえ、まだ比較的状態はよく、前照灯(ヘッドライト)にはまだガラスカバーが残っていて、電流を流せば光るんじゃないかと思うほどです。

 写真のミゼットは、近くに落ちていたドア部分を見てみると三角窓が付いている、荷台側面のフックが4つある、運転席(キャビン)後方の窓が2分割になっていない、フロントノーズの形状が古い、という特徴があります。

 これだけの情報でも、このミゼットが少なくとも、1959年(昭和34年)10月から1960年(昭和35年)5月まで販売されたミゼット発売当初のMP2型およびMP3型ではない、さらに1962年(昭和37年)12月に発売されたMP5型でもないことが推測されます。

 つまり、このミゼットは、荷台側面のフックが3つから4つに増えている、つまり全長が20mm延長された時のモデル「MP4型」の後期型(ドアに三角窓)の可能性が高いです。

 MP4型は、1960年(昭和35年)5月から1962年(昭和37年)12月まで販売されていて、1956年(昭和31年)10月に佐久間ダムが完成した後に、ここ小和田の地にやってきたことがわかります。


 2022.06.29現在
 (以下特に記述がなければ同日のものです)


東側ミゼットの近くに落ちていたドア部分

 ドア部分には、特徴があって、三角窓が付いているタイプとなっています。

 ミゼットのドア部分がこの形状となったのは、MP4後期型からのようです。

 なお、ミゼットはMP4前期型までは、乗降ドアのウインドウは折り畳み式のビニール製だったようで、MP4後期型から上下昇降手動式のアクリル製窓になり、三角窓やドアモールが追加されたそうです。


東側のミゼットの運転席(キャビン)

 ハンドルやエンジン、シフトレバーが残っているようです。

 また、エンジン部分には、プラグが今も残っていたようです。

 そして、このミゼットのことを考える上で重要なことを示していると思うのは、ハンドブレーキ(サイドブレーキ)が引き上げられた状態になっていることです。

 つまり、このミゼットに最後に乗っていた人は、この場所まで運転してきて、きちんとサイドブレーキをかけた状態で降車しているということです。

 このことは、この場所がふだんからミゼットの駐車場として使用されていた可能性があることを示していると思います。

 もちろん、駐車場ではなかったこの場所に、最後にこのミゼットを放棄するために、ここまで運転してきたのかもしれません。

 いずれにせよ、このミゼットの所有者が、最後にこのミゼットにお別れの挨拶ができたのかどうか、などと考えると、とてももの悲しい気持ちになってしまいます。

 このミゼットとその運転者は、一体どのような景色を見ていたのか、当時にドライブレコーダーがあったのならば見てみたいものです。

 わたしが想像しているとおり、ほんとうに高瀬橋を渡って中井侍駅方面へ行ったり、西山林道のほうへ出て大嵐駅や愛知県の旧富山村のほうへ行ったりしていたのでしょうか?

2台のミゼットのうち西側にある転倒した状態のミゼット

 こちらのミゼットは、フロント部が大きくへこみ、左側ドアが無く(運転席側の右側は落ち葉や草に埋もれたような状態)、車体は苔むしつつある状態で、車体の特徴をはっきりと掴むことはできませんでした。

 しかし、同じ場所の東側にあったもう1台のミゼットに似ていて、もう1台のミゼットが1960年(昭和35年)5月から1962年(昭和37年)12月まで販売されたMP4型の後期型だったことを考えると、おおむねMP4型なのではないか、と考えています。

 なお、今回ご紹介する遺棄された3台のダイハツ ミゼットは、1959年(昭和34年)10月から1972年(昭和47年)1月まで販売(日本国内)されたMP型で、MP型はMP2型、MP3型、MP4型、MP5型などのバリエーションが有ります。

転がったミゼットの近くには遺棄された一輪車も

 写真右奥のほうには、遺棄された一輪車も見えています。

 なお、この場所にある2台のミゼットがどうやってこの場所に来たのか、についてですが、わたしは製茶工場跡や広場がある写真奥のほう(西方向)から、かつてはこの場所にミゼットで出入りできたのではないか、と思います。

 南側(小和田駅側)は急斜面ですし、東側は道が続いていた形跡は無さそうで行けそうもなく、北側(天竜川側)は自動車で上れそうな角度の斜面ではないからです。

 今ではこの場所の西側も草木で覆い尽くされていますが、南側の急斜面から転がり落ちてこない限りは、この場所の西側からミゼットが出入りしていたと考えるのが常識的かなと思います。

フロント部が大きくへこんだミゼット

 2台あるミゼットのうち、西側にある転倒した状態のミゼットのフロント部は、大きくへこんでいました。

 考えられるのは、通常運転中にどこかでフロント部をぶつけてしまった、あるいは、この場所に入るときに転倒してフロント部を強打した、などの理由が考えられそうです。

 このミゼットは、フロント部のへこみの他に、車体側面や底部にもへこみが見られ、何らかの事故(転倒含む)に遭遇した可能性が見られる車体となっています。

 このミゼットがこの場所で転倒しているのは、上述のここへ来るときに転倒してしまった可能性もありますが、後で生えてきた樹木に下から押されて転倒した、あるいは誰かが人為的に転倒させた、などのケースも考えられます。

2台の遺棄されたミゼットを西側から見る

 写真手前側の転倒したミゼットの右側には樹木が見えていますが、当初普通に駐車されていたこのミゼットが、この樹木が成長したことにより、車体底面から押されて転倒した可能性もあり得ます。

 なお、ここの項では、この2台のミゼットが、どうやってここ小和田の地に来て、誰が何の目的で使用していたのかなどについて、あくまで個人的な考察をしてみたいと思います。

 この場所に遺棄された2台のミゼットたちは、上述のとおり、1960年(昭和35年)5月から1962年(昭和37年)12月まで販売されたMP4型(東側はおそらく後期型)だと思われ、1956年(昭和31年)10月に佐久間ダムが完成した後に、ここ小和田の地に入ってきています。

 佐久間ダムが完成した時点で小和田駅周辺から別の集落や町へ連絡する道(ルート)は、

  ①当駅から南西方向へ行く、軽トラックなら通行できたかもしれない、門谷川を渡って大嵐・水窪方面(西山林道)へ続く山の中の道
  ②当駅から北方向へ行く、河内川に架かる高瀬橋を渡って中井侍駅・平岡方面へ続く天竜川沿いの道
   (バイクは通行可能、軽トラックは通行できた可能性有り)
  ③当駅から直線距離で東北東に約1.7km、徒歩で約1時間の塩沢集落へ続く山道(バイク・自動車の通行不可。高瀬橋へ向かう途中で分岐)

 の3つの主要ルートがあったようです。

 なお、その他、小和田駅から南西方向へ行く道の途中で「←左 マキホツ方面径路」と書かれた道標が立っている分岐地点があり、徒歩で旧マキホツ集落を経由して天竜川林道へ出る山中のルートもあるようですが、現在では、道を見失ってしまう可能性があるような山道となっているようですので注意が必要です。

 つまり、現在この地に残されたミゼットたちは、上記の①、②のルートを通って小和田まで来た可能性がある、と考えることができます。

 ただし、①と②のルートも、道幅がとても狭かったのは間違いなく、ミゼット(MP型)の車幅が約1.3m(1,295mm)ですので、本当に①と②のルートがミゼットで通ることができたのかは、わたしは未だ確固たる証拠と確信を持ち得ていないのも事実です。

 ただ、①の当駅から南西方向へ行く大嵐・水窪方面(西山林道)へ続く山の中の道の途中には、その道の踏破にチャレンジされた方のレポートを拝見させて頂くと、佐久間ダム完成後に発売された軽トラック「スズキ キャリイ」(3代目 販売期間 1966年3月~1969年6月)が路上に遺棄されていた写真があり、そのことは①のルートがミゼットなら通行できたのではないか、と推測されうる根拠となっています。


 そこで、もうひとつ、ミゼットがここ小和田の地へ来た手段としてひらめいたのが、飯田線の貨物列車です。

 小和田駅は、1971年(昭和46年)12月1日までは貨物・荷物の取り扱いを行っていたようで、そうするとミゼットたちは、ここまで飯田線の貨物列車によって運ばれてきた可能性もありえます。

 小和田駅の西側(大嵐・豊橋方)にある「第2大輪トンネル(50)」出口の手前には、かつて当駅で貨物の積み下ろしを行っていたと思われる貨物用ホーム跡が今も残っています。

 あくまで可能性、選択肢のひとつの話ですが、ネット上では1960年前後に貨物列車でダイハツ ミゼットが小和田駅に到着した、という証言も見かけました。

 もしそうだとすると、このミゼットたちは、単に小和田駅周辺と高瀬橋近くにある民家などの間を往復して荷物を運ぶためにこの地へやってきたのであって、河内川に架かる高瀬橋を渡った先の中井侍駅および平岡方面、または門谷川を渡った先の大嵐・水窪方面へは行き来していない可能性も有り得ます。

 また、ミゼットがここへやって来たあらゆる可能性を考えるならば、天竜川から船に乗って運ばれてきた、あり得ないほどのケースとして、ここまで空輸されてきた、などの方法も考えることだけはできます。


 次に、この2台のミゼットが、どうしてここへやって来たのか、誰が何の目的で使用していたのかについて考えてみます。

 ミゼット自体が軽トラックである、ということに着目すれば、ここにきた理由は第一に「仕事で利用するため」と考えるのが普通です。

 このすぐ近くに製茶工場があった、ということに着目すれば、やはり同工場のお茶や物資を運ぶためにここに運び込まれた可能性がまず考えられます。

 製茶工場の内部を詳しく見られた方の記事によると、製茶工場内には、昭和39年(1964年)5月から昭和52年(1977年)5月までの日付が記述されていたのが見られたそうで、そうすると製茶工場は少なくとも昭和52年(1977年)5月までは稼動していたことが推測されるようです。

 また、佐久間ダム完成後も小和田駅近くに商店があったのならば、その商店の商品仕入れなどのために使用されたかもしれません。(一説には製茶工場の一角が商店だったという見方も有り)

 その他に考えられるのは、林業・林道維持管理関連、河川維持管理関連、送電線維持管理、電話回線維持管理、飯田線の保線作業関連、砂利や土砂の運搬などが考えられ得ると思います。

 また、ここに住んでいた人のための移動手段として持ち込まれたかもしれないですし、あるいは他の集落や町、都市の方の所有物であって、たまたまこの地に来ていたのかもしれません。


 最後に、ミゼット達がなぜ遺棄されることになってしまったのかについて考えてみます。

 ミゼットが小和田の地へやってきた後は、大嵐・水窪方面(西山林道)へ出る南西方向の道は、門谷川に架かっていた橋の崩落あるいは土砂崩れなどの理由(推測)により1982年頃(昭和57年頃)に通行不能となり、高瀬橋は昭和50年代頃に崩落が始まって1983年(昭和58年)頃には通行禁止となったようで(いずれもネット上の情報)、現在では、小和田駅周辺と他の集落や町を行き来できる、人が普通に歩けるような道は、塩沢集落へ通じるバイクや自動車が通行できない徒歩約1時間の険しい山道を残すのみとなっています。

 また、上述のとおり、小和田駅は1971年(昭和46年)12月1日に貨物・荷物の取り扱いを廃止して純粋な旅客駅となっています。

 このように、ここ小和田の地へ来ていたミゼットたちは、他の集落や町へ行き来できる通路や手段を失ってしまい、小和田の地から出られなくなり、今ではこの地で朽ち果ててしまう運命となってしまっています。

 もちろん、ミゼットたちが故障、衝突事故や転落事故などの理由により、動けなくなってしまったため遺棄された、という可能性も大いにあります。

 なお、小和田の地に遺棄されているミゼットたちが、必ずしも地元関係者の所有物ではなく、廃車手続きや廃車費用の支払いを嫌った他の集落や町の人間が、過疎化したこの地にミゼットたちをわざわざ違法投棄しに来た可能性も否定しきれないと思います。



ミゼット2台の遺棄された場所に見られた数々の廃棄物

 1980年代に小和田駅周辺から自動車やオートバイで他の集落や町へ出られなくなった時、小和田駅周辺で出るゴミは大きな問題になったのではないでしょうか?

 なぜなら、自動車やオートバイでゴミを小和田駅周辺から他の場所へ移動させることができなくなったということは、この周辺で出たごみは山中に遺棄するか、天竜川に捨てるか、あるいは飯田線の普通列車で運ぶか、徒歩で他の集落まで運ぶかの4択しかなくなったことを意味したものと思われます。

 常識的に考えると、天竜川にゴミを捨てることは、結果として佐久間ダムのダム湖である佐久間湖を汚すことになるので、やってはいけないことであり、また、ゴミを飯田線の普通列車で運んだり、徒歩で他の集落まで運ぶことも、それなりに限界があったことが想像されます。

 そうすると、残された選択肢は、これも本来はやってはいけないことと思いますが、ゴミを山中に遺棄し、長い年月をかけて自然に還るのを待つしかない、という苦渋の選択の結果、このように遺棄された廃棄物がここに残っているのではないでしょうか?


遺棄された運賃表と「塩」の看板

 運賃表に書かれた値段を見てみると、中井侍 140円、飯田 640円、大嵐 120円、中部天竜 310円、東栄 440円、新城 870円、豊川 1000円、豊橋 1130円、蒲郡 1500円、岡崎 1500円、名古屋 2000円、浜松 1700円、静岡 2500円、熱海 3600円、横浜市内 4500円、東京都区内 4700円などとなっています。

 個人的には、蒲郡と岡崎までの値段が同じ1,500円というのは、ちょっと信じられない気がします。

 現在のJR東海道本線の豊橋~蒲郡間は330円、豊橋~岡崎間は590円なので、蒲郡は、1300円~1400円あたりの間違いではないでしょうか。

 それとも特例か何かで当時は同じ値段だったのでしょうか。

 また、写真右側には「塩」と書かれた看板が遺棄されているのが見えています。

 個人的には、この「塩」と書かれた看板は非常に重要だと考えていて、これは小和田駅周辺にかつて塩などを販売する商店があったことを証明するものになると思います。

 塩は、人々の食生活に非常に重要な物となっていますので、その塩を販売する商店がこの近くにあったであろうと推測されます。

 アニメ「機動戦士ガンダム」の第16話「セイラ出撃」では、連邦軍のホワイトベースのタムラ料理長が、ジオン軍の攻撃を受けて塩が不足した際に「塩が無いと戦力に影響するぞ!」と発言しているのがよく知られています。

遺棄された碍子など

 これらの遺棄された碍子(がいし 絶縁器具)が、飯田線に関わるものなのか、送電線の電柱や鉄塔などに関わるものなのかは、わたしでは判別できません。



2台のミゼットが遺棄されている場所を探す

 ここからは、少し時間と話を戻らさせていただいて、2台のミゼットが遺棄されている場所がどこなのか、どうやってその場所に到達できたかをご紹介させていただきます。

 2台のミゼットがどこにあるのかは、もちろん予めネット上で調べていたのですが、小和田駅を初めて訪れる自分にとっては、他の方の画像や動画を見ても、いまいち場所を完全に特定できないまま、当日小和田駅に向かうことになりました。

 ただ、「おそらく住居跡の東側の少し小高いところ」というイメージだけは掴んだつもりでしたので、そのイメージに基づいてその場所を探すことにしました。

 上の写真は、住居跡の南側にある散策道を、高瀬橋と塩沢集落方面へ向かう途中で撮影したものです。

 住居跡から少し東方向へ進んだあたりで撮影したもので、写真奥方向が東方向で高瀬橋・塩沢集落方面になります。

 自分のイメージでは、先ほど述べましたように「住居跡の東側の少し小高いところ」に2台のミゼットがある、ということでしたので、写真右側(南側)の小高いところが怪しくなってきました。

住居跡東方の散策道分岐点

 もう少し東方向へ進むと、南側(写真右側)のほうに、土地が高くなっているほうへ続く、かろうじて人が歩けそうな獣道のような、なんとか上の方へ行けそうな箇所を見つけました。

 なお、写真左奥(東方向)のほうへ続いていく道が高瀬橋・塩沢集落方面への小道で、写真左下手前側(西方向)のほうへ折り返し行くと小道が続いていて、もう1台のミゼットがある場所に出ます。

 写真の右上方向へ続く獣道(けものみち)の先が、がぜん怪しい雰囲気となってきましたので、よ~く見てみると…

遺棄されたミゼット2台を発見!

 ありました! 周囲の樹木の緑や砂利などの自然の合い間に、不自然に溶け込んでいる人工的な形をしたものが見えました!

 形からして2台のミゼットに間違いない、そう思いました。

 当時ここに住まわれていた人達に対し不謹慎かもしれませんが、遠路はるばる小和田まで来て、探していたものが見つかると、やはり嬉しく感じてしまいます。

 上の写真を見ていただくと、2台のミゼットがあるのがわかりますでしょうか。


遺棄されたダイハツ ミゼット2台

 2台のミゼットを見つけたのはいいのですが、今度は実際に近寄ってみなければなりません。

 2台のミゼットは、散策道から斜面を上った狭い平地となっている場所にあります。

 上の写真は散策道から見上げて撮影したもので、実際にミゼットのある場所に向けて上っていってみると、階段の類も無くて地面が砂利で少々滑りやすく、掴める枝なども少ないため、上り下りの際には斜面から滑り落ちないように十分慎重を期す必要があります。


ミゼット2台がある場所の下辺り(北側)の様子

 写真右上のほうにミゼットが見えていて、写真右端側に見える、ミゼットに向かって上っている獣道(けものみち)のようなところを歩いて上っていくと、2台のミゼットがあるちょっとした平地に出ることができます。

 また、写真左下奥のほう続く散策道は、高瀬橋および塩沢集落方面へと続いています。





小和田駅下(北側)の天竜川岸辺近くにあったダイハツ ミゼット
住居跡下の北東側に放棄されているダイハツ ミゼット

 小和田駅下にある住居跡と製茶工場跡の間を通り過ぎて、さらに下のほうの天竜川のほうへ行くと東西方向に伸びる小道があり、その小道を東方向へ行った住居跡下の北東側に写真のミゼットが遺棄されています。

 上の写真は、ミゼットを西側から撮影したもので、写真右奥のほうのミゼットから約5mほど離れた場所には、このミゼットのものと思われる車輪が1つ転がっています。

 また、写真左下側(北側)すぐの場所には天竜川が流れ、写真右奥のほう(東方向)へ小道(散策道)を進んでいくと、高瀬橋や塩沢集落方面へ行くことができます。

 このミゼットは、小和田駅を訪れた方たちによりネット上でも頻繁に紹介されているため、もはや秘境駅小和田の代名詞的存在にすらなっているような気もします。

 このミゼットがどうやって小和田のこの場所にやって来たのかについては、上述の2台のミゼットのところで詳細に自分なりに検証していますので、そちらをご覧いただくとして、実はこのミゼットがなぜこの場所にあるのかを考えるうえで、上述した以外の他に、もうひとつ考えなければならない事象があるのです。

 それは、大嵐駅(おおぞれえき)南方にある夏焼集落(2015年に無人集落)へのアクセス道路となっている、旧飯田線のトンネル「夏焼隧道」を利用した夏焼トンネルの入口(夏焼集落側)が、1960年(昭和35年)頃に天竜川が異常増水した時に佐久間湖(佐久間ダムのダム湖)に水没した、という情報です。

 水没したという夏焼トンネルの入口の標高が263m、佐久間ダムの常時満水位(平常時最高水位)は標高260m、同ダムの堤高は155.5mで非越流部高(堤頂部と同じ高さの水位)は標高270m、夏焼集落の標高は約270m~280mあたりの範囲にあり、そう考えると、その時の異常増水は最大で標高265m前後はいったのではないでしょうか。

 ちなみに、夏焼トンネル(旧飯田線の夏焼隧道 全長1,233m 竣工時は1,238m)の大嵐駅方出口の標高は約290mで、夏焼集落側入口の標高263mよりも約25mも高くなっています。

 そして現在の地図を見てみると、夏焼集落付近の佐久間湖の水位は標高約240m、小和田駅北側の天竜川の水位は標高約240mで、両地点の水位はほぼ同じだと考えると、小和田駅北側の天竜川も、1960年(昭和35年)頃に天竜川が異常増水した時には、水位が標高265m前後まで上昇したと推測されます。

 これらの数値は、あくまで自分が調べてみたり推測した範囲なのですが、上述の2台のミゼットがある場所はおそらく標高約270m~280mあたりと思われますので、その天竜川の異常増水時に、2台のミゼットのある場所辺りまで、ぎりぎり天竜川の水面が達していたかもしれない可能性はありえます。

 ただ、おそらく2台のミゼットがある場所の高さ(標高)は、おおむね現在の住居跡と製茶工場跡と同じぐらいだと思いますので、住居跡は内部を見る限り明確に浸水したような様子は見られず、製茶工場跡も床が抜けるなど現在は損壊が激しいですが、工場内の製茶機械・設備類が流出するなどの浸水の確たる形跡は無かったように思いますので、天竜川増水時の影響は、住居跡、製茶工場跡、2台のミゼットのいずれも極めて軽微、あるいは全く影響が無かった可能性もあります。

 しかし、その時の増水時に製茶工場跡が床の高さぐらいまではぎりぎり浸水して、そのことが同工場の床が抜け落ちたりするなどの損傷や劣化を早めた可能性も否定しきれません。

 一方で、住居跡北東側にある、この1台のミゼットがある場所は、標高約260m~270mあたりではないかと思われ、こちらはかなり高い確率で、その時の増水時の影響を受けている可能性があります。

 わたしは残念ながら写真を撮っていないのですが、このミゼットは、他の方の情報によると、荷台側面に「豊橋工場」と書かれていたようで、小和田の地元の方達が自分たちで使用するために購入されたものではない可能性が高いです。

 そうすると、このミゼットは、1960年(昭和35年)頃の天竜川が異常増水した時に、別の場所から流されてきて、川の水が引いたときにこの木に引っかかるなどして、この場所にたどり着いた可能性もあることがわかります。

 あくまでも可能性で、断定はもちろんできませんし、1960年(昭和35年)頃の天竜川の異常増水前に、このミゼットがどこにあったのかも、現時点ではわかりません。

 ダム湖の佐久間湖の異常増水としても、どこからか流れてきたのであれば、通常ならば、ここ小和田の地の近くか、あるいはこの場所よりも上流の中井侍や平岡のほうから流れ着いたと考えるのが普通かなあと思いますし、もともとこの場所のすぐ近くに遺棄されていたミゼットが水に浸かってほんの少し移動しただけかもしれません。

 もちろん、このミゼットが、たまたまこの小和田の地に来ていた、あるいはこの地で仕事をしていたら故障して動けなくなった、または小和田から他の集落や町へつながる道路が土砂の崩落などにより使えなくなったため、やむをえずここに放棄した、その他、悪意の違法投棄などの通常推測される理由により、はじめからこの場所に放棄されていた、ということも当然考えられます。


 そして、これまで天竜川増水時に流されてきたのではないかという可能性を述べてきましたが、一点とても重要なことは、遺棄されているダイハツ ミゼットはMP型で、1959年(昭和34年)10月から販売が開始されているということです。

 天竜川の異常増水があったとされるのは1960年(昭和35年)頃で、ミゼットが発売されてから1年ぐらいしか経っていないということは、ある意味重要です。

 ミゼットは、MP2型が1959年(昭和34年)10月発売、ということがわかっていますので、このミゼットがどの型なのかが判明すれば発売時期がわかり、型によっては1960年頃の天竜川の異常増水時には、そもそもこのミゼットは発売されておらず、この世にまだ存在しなかった、ということもわかるわけです。

 そこで、自分なりにこのミゼットを見てみると、フェンダーミラーが左右両側にある、乗降ドアの窓ガラス部分には三角窓が無さそう、運転席(キャビン)後方の窓ガラスが大きな1枚となっている(2分割になっていない)、などの特徴があることがわかりました。

 そうすると、それらの特徴を少なくとも備えたミゼットは、1959年(昭和34年)12月から1960年(昭和35年)5月まで販売されたMP3型の後期型か、1960年(昭和35年)5月から1962年(昭和37年)12月まで販売されたMP4型の前期型が該当することがわかりました。

 つまり、なんと、このミゼットは、1960年(昭和35年)頃に天竜川が異常増水した時には、すでに全国各地で販売されていてこの世に存在し、これまでわたしが独自に検証してみたように、ひょっとしたらこのミゼットはもともとこの場所にあったのではなく、天竜川の異常増水時にどこか別の場所から流されてきた可能性がある、ということが言え得るわけです。

 なお、天竜川の異常増水が1960年(昭和35年)以降に全く無かったのか、といえばそこまでは自分では詳しくは調べておらず、その時から現在までの約62年間の間に再び異常増水が発生している可能性も十分ありえます。

 ネット上で調べたところでは、1961年(昭和36年)6月24日から7月10日までの間に、天竜川水系が台風6号の接近と梅雨前線の停滞により豪雨に襲われたものの、佐久間ダムが洪水調節機能として十分その役割を果たした、などと書かれたレポートは目にしました。

 その時の水害は、三六災(さぶろくさい)と呼ばれ、佐久間小学校が浸水している写真も見ることができました。

 そのレポートは、天竜川の異常増水があったとされる翌年の1961年(昭和36年)のことでしたので、ひょっとしたら、同じ事象、つまり1960年(昭和35年)頃にあったといわれる天竜川の異常増水とは、ほんとうは1961年(昭和36年)のことではないか、とも少々疑っています。

 なお、1961年(昭和36年)以後は、1968年(昭和43年)8月洪水、1983年(昭和58年)9月洪水、2006年(平成18年)7月洪水などの水害が天竜川水系で発生しているようで、それらの水害時に、このミゼットが浸水して流されている可能性もあり得ます。


転落してここにあるともいわれる、荷台に「豊橋工場」と書かれたミゼット

 このミゼットが、転落して現在この地にある、という見方もあるようですが、わたしはこのミゼットの車体の現状を見るに、転落したような車体のへこみや歪みがあまり見受けられず、個人的には転落して遺棄されたものではない、と考えています。

 別の場所で1メートル以内の高さから軽度に転落したり、あるいは別の場所で転倒して故障し動けなくなり、天竜川の異常増水時にこの場所まで流れ着いた、ということならあり得ると思います。

 もちろん、この場所で転倒したり、故障したりして動けなくなった、小和田から別の集落や町へ行き来できる道が土砂崩れなどにより使えなくなったため、やむを得ずこの場所に遺棄した、ということは普通に考えられます。


 そして、わたしは残念ながら写真を撮っていないのですが、このミゼットは、他の方の情報によると、荷台側面に「豊橋工場」と書かれていたようです。

 その情報はこのミゼットの由来を考えるうえで非常に重要で、「豊橋工場」と書かれているということは、このミゼットは小和田の地元の方達が自分たちで使用するために購入したものではない可能性が非常に高いと考えられます。

 「豊橋工場」の記載から単純に考えられるのは、製茶や林業に関する企業(木工所)、電線・電柱および機械設備類、屋根瓦やガラス・窓などの住宅関連、食品類、衣料や日用品、電気製品や家具類、セメント・アスファルト・煉瓦や砂利などの「豊橋工場」ぐらいでしょうか。

 林道維持管理関連、河川維持管理関連、送電線維持管理、電話回線維持管理、飯田線の保線作業関連では、「豊橋工場」という名称が使われそうにないからです。

 それらの事業者の方がミゼットに名称をペイントするなら、「〇〇事務所」、「〇〇事業所」、「〇〇営業所」、「〇〇支社・支所」、「〇〇株式会社」などとなるのではないでしょうか。

 このミゼットの近くには製茶工場跡があるのですが、「製茶 豊橋 工場」でネット検索をかけてみると、現在の「豊橋市茶業農協 製茶工場」さんが出てきますが、果たしてどうでしょうか。

 小和田の製茶工場では荒茶まで仕上げ、荒茶を豊橋工場まで運んで仕上げ加工を行っていたのでしょうか?

 謎は深まるばかりです。


ミゼットと離れた場所にある車輪

 上の写真は、ミゼットを南側から撮影したもので、写真左側にミゼットが、右側(東側)のほうのミゼットから約5mほど離れた場所には、このミゼットのものと思われる車輪が1つ転がっています。

 写真の樹木の向こう側(北側)には、天竜川が流れています。

 ミゼットのものと思われる車輪が車体本体から約5mも離れていることが示すのは、

 ①ミゼットが、かつてこの場所辺りで事故を起こし大破した。
 ②誰かが車輪を車体本体から離れた場所に移動させた。
 ③天竜川の異常増水時に浮いて車体本体から離れてここに移動した。

 などの理由が考えられそうです。

 もちろん、写真右側に見える車輪が、近くに横たわるミゼット(写真左側)のものだという断定は、わたしではできません。

 なお、個人的には、このミゼットが写真手前側にあるコンクリート擁壁上部や山の斜面などから転落した、とは考えていません。

 なぜなら、転落したのであれば、車体がもっと歪んだり、へこんだり、現状ある姿よりもベコベコになっていると思うからです。


遺棄されたミゼットを東側から見る

 写真右下の木の幹にはさまっているように見えているのがミゼットです。

 写真左上のほうに上がって行くスロープ状(斜路)の小道(散策道)は、住居跡、製茶工場跡、「愛の椅子」東屋、小和田駅に続いています。

 写真正面奥(西方向)のほうへ続く小道(散策道)は、住居跡下(天竜川側)、製茶工場跡下、さらに小和田池之神社方面へと続いています。

 いずれの小道も、ダイハツ ミゼットの車幅(1,295mm)ならば通行できたかもしれない可能性があるものです。

 もし、写真のミゼットが「転落した」ということであれば、写真左側に見える約2mの高さのコンクリート擁壁から転落したと考えるのが普通です。

 だとしたら、転落した衝撃で、車輪が外れて現在の約5m離れた位置に転がったとしても不思議ではないと思います。

 ただ、どうにも腑に落ちないのが、この高さから転落して、ほんとうに現在のような、あまり車体にへこみや歪みが見られない状態でいられたのかどうか、という疑問が個人的に残ります。

 多くの事故を見てきた方ならば、そのあたりの疑問点を解決できるのかもしれません。

 なお、2台のミゼットがある場所は、写真左上のほうの小高い場所になります。


遺棄されたミゼットを東側から見る

 写真右下のほうには、ミゼットのものと思われる車輪が1つ転がっています。

 写真右側(北側)のほうは、すぐ天竜川で、この日は目の前で浚渫船が活動していました。

 佐久間ダム完成前の古い写真を見てみると、写真右側に見える天竜川の岸辺の水面下には、かつては少なくとも10軒程度の建物(民家、商店、工場などの分類は不明)があったことがわかります。

 ただし、古い写真を見る限り、それらの建物は、当時の2階建て建物の高さの約2.5倍は、この場所から下のほうに建っています。

 つまり、当時の建物類の基礎工部分は、この場所から最低約10mは下のほうということになり、それらかつての建物の痕跡は、普段は天竜川に水没していて見ることはできません。

 もちろん、この付近の天竜川の水位が渇水などでかなり下がったとしたら、水没した建物の何らかの痕跡が見られるかもしれませんが、現在の天竜川の岸辺を見ると、土砂や砂利、粘土状にも見える泥が堆積していて、佐久間ダムが1956年(昭和31年)10月に完成してから65年以上経った今、かつての建物の痕跡が見られるかどうかは、かなり期待薄なのではないでしょうか。

 それに、10軒程度の建物の所有者や入居者の立ち退きが終了した際に、その部分をコンクリートやブロックで覆うなどの護岸工事が行われている可能性もあります。


遺棄されたミゼットを南東側から見る

 写真左奥のほう(西方向)へ進むと、写真左端側に見えるコンクリート擁壁の上には住居跡があり、さらに進むと製茶工場跡の北側に出ます。

 写真右側(北側)の樹木の間の向こう側には、天竜川の水面が見えています。


住居跡下から東方向に見えるミゼット

 写真奥方向が東方向で、高瀬橋および中井侍駅方面(天竜峡・飯田方面)になります。

 写真左下(北側)のほうには天竜川が流れていて、写真右側(南側)のコンクリート擁壁の上に住居跡が見えています。

 そして、おわかりになりますでしょうか… 写真奥のほうに続く小道の先の木の下に、何やら見えていますが…



住居跡北東側に遺棄されているミゼット

 そうです。 住居跡北東側の天竜川沿いを通る小道(散策道)の道端にミゼットがあります。

 わたしが小和田駅とこのミゼットの存在を初めて知った時は、ミゼットはもっと駅近くの東側辺りにあって、秘境駅というからには、このミゼットは、もっと草木がうっそうと茂った暗い獣道を歩いていった先にあるようなイメージと先入観を持っていました。

 ここへ来る前には、予めミゼットのある場所をネット上で下調べをしてはいたのですが、実際にこの場所に訪れてみた時には、この場所は意外に見通しも良く、日差しも明るい場所で、人が安心して通ることができる散策道の道端にさりげなくミゼットがあった感じでしたので、逆にちょっとした驚きを感じました。


ミゼットの東側に転がる車輪

 ミゼットの車体本体の東側約5mぐらい離れたところに、同車のものだったと思われる車輪(タイヤ)が転がっています。

 車輪がなぜ、車体本体から約5mも離れた場所にあるのか… このことはこのミゼットの過去を明らかにする、ひとつの重要なキーワードになっているのかもしれません。


 以上、小和田駅下にある3台のダイハツ ミゼットにつきまして、自分なりの解釈などを含めてご紹介させて頂きました♪

 皆様もぜひ、このミゼットたちがどのようにしてここ小和田の地へやって来たのか、なぜここに取り残されたのか、誰がどのような目的でミゼットを使っていたのか、などなど、新しい事実の探求や検証をされてみてはいかかでしょうか☆

 新しい情報などを見かけましたら、わたしもこのページの記述を今後とも加筆訂正していきたいと思います。







小和田駅(小和田-中井侍)
こわだ


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