飯田線の小和田駅北東にある吊り橋の高瀬橋 今は床板も朽ち果て通行不可能 
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 このページでは、現在は飯田線の秘境駅として知られる小和田駅の北東にある吊り橋の高瀬橋についてご紹介しています♪
高瀬橋は、佐久間ダムが完成した約3ヵ月後の1957年(昭和32年)1月に竣工しましたが、その後約20年以上経った
昭和50年代頃には崩落が始まって、1983年(昭和58年)頃には通行禁止となっていたようです。
今は木製の桁や床板(踏み板)は朽ち果て、主塔やメインケーブルなどの残骸が残りつつあるのみとなっています。
同じような境遇の吊り橋の井川大橋は現在も健在なのに、なぜ高瀬橋は崩落するがままとなったのでしょうか。

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飯田線の小和田駅北東にある吊り橋の高瀬橋
高瀬橋(たかせはし)

 小和田駅の北東約1km辺りのところにある、有名な朽ち果てつつある吊り橋の高瀬橋(たかせはし)です。

 上の写真は高瀬橋と言っても、厳密には、高瀬橋の吊り橋のメインケーブルを支える小和田側(河内川左岸)の主塔(タワー)となっています。

 高瀬橋は、天竜川の支流の河内川に架かっていて、かつては小和田地区と中井侍駅・平岡方面を連絡し、小和田地区と他の集落を行き来できる数少ない生活通路の1つとして機能していました。

 現在は、吊り橋の木製の桁や床板(踏み板)はほとんど崩落していて、通行できない状態となっています。

 ネット上の情報によると、昭和50年代頃に崩落が始まって、1983年(昭和58年)頃には通行禁止となっていたようです。

 それでも、1998年頃にこの高瀬橋を訪問された方の写真を拝見させて頂きますと、現在よりはまだ多くの桁と床板が残存していた状態となっていたようです。


 なお、高瀬橋を渡った先の対岸(河内川右岸)にあった中井侍駅・平岡方面へ続く道も、現在は土砂崩れなどで通行できず廃道となっています。

 ちなみにネット上では、対岸の廃道となった通路を踏破して、対岸の高瀬橋の主塔まで到達されたチャレンジャーの方のご報告を見ることができます。


 この高瀬橋は、小和田駅周辺と中井侍・平岡方面を結び、現時点では私は確たる証拠は確認できていませんが、おそらくダイハツ ミゼットのような軽自動車クラスなら通行できて、小和田駅周辺に生活の本拠を置く人々にとっては非常に重要な橋だったと思います。

 にもかかわらず、この高瀬橋は竣工の約20年後には崩落が始まったということで、今振り返ってみて個人的に思うところは、なぜ吊り橋ではなくもっと頑丈な橋を架けなかったのか、という疑問をどうしても感じてしまいます。

 当時の技術では、河内川のこの場所にコンクリート製あるいは鋼鉄製の頑丈な橋を架けることはできなかったのでしょうか、それとも費用対効果などの予算上の制約や、この程度の吊り橋で十分という当時の役人や施行者達の驕りがあったのでしょうか?

 客観的に見て、この高瀬橋が架かっていた場所の高さは河内川の水面からかなり高い場所にあるので、コンクリート製あるいは鋼鉄製の大規模な橋を架けるのは、費用対効果などの予算面から、なかなか難しかっただろうことは推測されます。

 それにしても、架橋竣工後約20年程度で崩落が始まるというのは、結果としていえるのは、当時の耐用年数の見積もりが甘かったのではないでしょうか?


 現在朽ち果てつつある高瀬橋は、1956年(昭和31年)10月に佐久間ダムが完成した約3ヵ月後の1957年(昭和32年)1月に竣工していますが、1936年(昭和11年)4月に発行された地図では、同じ場所にすでに橋は架かっていたようですので、現在の高瀬橋竣工以前および佐久間ダム完成以前、飯田線の小和田駅開業以前も、小和田地区と中井侍方面の行き来はできていたことになります。

 ただし、佐久間ダム完成前にこの場所に架かっていた旧高瀬橋(同名だったかどうかは不明)は、現在の高瀬橋よりもかなり低い場所にあったと思われます。

 確定的なことはわかりませんが、現在の高瀬橋の標高が約270mあたり、旧高瀬橋があったと思われる場所の標高は約240mあたりになるのではないかと思われます。

 小和田地区から旧高瀬橋につながっていた古い通路は、おそらく佐久間ダム完成時に水没する可能性があるということで放棄されて廃道となったものと思われますが、その痕跡を確かめられた方の報告などは現時点では私は目にしておらず、断定的なことはわかっていません。

 なお、この高瀬橋を通る小和田地区と中井侍地区を連絡する道は、小和田駅下に遺棄されているダイハツ ミゼット(計3台)がどこからやって来たのか、というテーマを考察する際にとても重要な道となっています。

 2022.06.29現在



高瀬橋(たかせはし)の主塔

 飯田線の小和田駅前の散策道を下りて、天竜川沿いに整備された小道を中井侍・平岡方面へ約25分ほど歩くと、高瀬橋に到達することができます。

 小和田駅下からの道中は、上り坂も結構あり、クマ注意の掲示、小規模な崖崩れ痕、何ヵ所かの倒木などもあり、決して平坦な道のりではなく、この日は暑い日だったこともあって約25分間の徒歩は決して楽なものではありませんでした。

 上の写真は高瀬橋と言っても、厳密には、高瀬橋の吊り橋のメインケーブルを支える小和田側(河内川左岸)のコンクリート製の主塔(タワー)となっています。


 2022.06.29現在~天気は夏日
 (以下に掲載する写真は、特に記述が無い限り同日のものです)


桁や床板が崩落してしまった高瀬橋

 上の写真は、高瀬橋の主塔の間の先に見える、現在の朽ち果てつつある高瀬橋の状態を撮影したものです。

 桁や床板(踏み板)などは、ほとんどが河内川に崩落し、現在はかろうじて桁や床板の一部がハンガーロープにぶらさがって残っているのみとなっています。


朽ち果てつつある高瀬橋

 上の写真は、高瀬橋の主塔左側の隙間から見た、高瀬橋の現在の状況です。

 高瀬橋は昭和50年代頃には崩落が始まったといわれていますので、放置して約40年経過すると木製の吊り橋はこのようになってしまうのでしょうか?

 崩落が始まった時点で、何らかの修復工事を行っていれば、もう少し長い間供用に耐えられたと思われます。

 しかしながら、おそらく修復工事は行われなかったものと思われ、その明確な理由はいったい何だったのでしょうか?

 破損個所が修理不可能あるいは修理困難な箇所だった、修理してもまたすぐ壊れると判断された、費用対効果の面で修復のための予算が確保できなかった、崩落が始まった時点ですでに高瀬橋を使用する人がほとんどいなかった、などの理由が考えられそうです。

 いずれにしても、当時この高瀬橋を必要としていた方達にとっては、修復が施されない決定を知らされて、崩落を見届けるしかなくなった時の絶望感はとても深いものがあったのではないでしょうか。


高瀬橋の主塔とメインケーブル

 主塔を見上げると、メインケーブルは今でも力強く張り詰めて残っているように感じました。

 しかしながら、そのメインケーブルも長年にわたってメインテナンスなどの手入れはなされていないので、見た目以上に経年劣化している可能性はあり、いつしか切断されて河内川に落下してしまう日が来るかもしれません。


高瀬橋のメインケーブルのアンカーレイジ側

 メインケーブルは、高瀬橋の手前側にある岩壁のほうにつながっていました。

 メインケーブルをつなぎ止めて固定するアンカーレイジがコンクリート製のものなのか、自然の岩盤を利用していたのかは、さすがに岩壁を登る危険を冒してまでは確認できていません。


主塔に刻まれた「たかせはし」の文字

 高瀬橋が竣工してから65年以上もの月日が経っているのですが、その主塔は現在も特に苔むしたりせず、草が絡み付いたり、ひび割れを起こすことも無く、とても綺麗な状態で立っていて、その状態の良さにとても驚きを感じます。


主塔に刻まれた竣工年

 「昭和三十二年一月竣工」と刻まれています。

 現在朽ち果てつつある高瀬橋は、1956年(昭和31年)10月に佐久間ダムが完成した約3ヵ月後の1957年(昭和32年)1月に竣工しています。

 小和田駅周辺からここまで続く現在の小道は、その時に同時にダム建設補償として造営・整備されたものではないかと思います。

 あるいは、ひょっとしたら、佐久間ダム建設以前からもともとあった山道を利用して現在の小道が整備されたのかもしれません。


主塔の間から崩落した高瀬橋を見る

 かつてはここから対岸へ、人やオートバイ、おそらく軽自動車が渡って行ったわけですが、現在はその面影すら感じにくくなるほど、高瀬橋は崩落してしまっています。

 主塔の入口の横幅は2m以上はありそうなので、小和田駅下に遺棄されている軽三輪トラックのダイハツ ミゼット(MP型)ならば十分通行できた可能性があります。

 ミゼット(MP型)の車幅は約1.3m(1,295mm)で、高瀬橋の木製の桁と床板がその重さに耐えられたのであれば、ミゼットが高瀬橋を渡って小和田地区と中井侍方面を行き来できた可能性があります。

 現在でも、木製の床板でありながら自動車で渡れる吊り橋として、静岡県静岡市葵区にある井川湖(井川ダムの人造湖)に架かる「井川大橋」(いかわおおはし)があります。

 井川大橋は、全長258m、全幅2.5mの木製床板の吊り橋で、総重量2トン未満の自動車が1台のみ通行可能となっていて、現在ではちょっとしたスリルと絶景が楽しめるということで知られているようです。

 この高瀬橋の主塔入口の横幅が2m以上ありそうなことを考えれば、この吊り橋は人とオートバイの通行だけを考慮して架けられたものではない、と推測できるのではないでしょうか。

 日本では、貨物自動車の三輪トラック(オート三輪)は、戦前の1930年代から1950年代まで隆盛を極めたそうですので、それらの自動車が通行できるように高瀬橋が設計・建設されたものと思われます。

 ちなみに、小和田駅下に遺棄されているダイハツ ミゼット(MP型)は、高瀬橋が竣工した2年9ヵ月後の1959年(昭和34年)10月に販売開始となっていますので、この高瀬橋はミゼットの通行を前提で設計されているものではありません。


「高瀬橋 通行できません」の表示

 高瀬橋の主塔の下部には、標識ロープ(トラロープ)が左右に張られ、「この先(高瀬橋) 通行できません 天竜土木整備事務所」と書かれた表示が掲出されています。

 なお、前述の、木製床板の吊り橋でありながら現在も総重量2トン未満の自動車1台だけなら通行できる、静岡市の井川湖(井川ダムの人造湖)に架かる「井川大橋」は、この高瀬橋と同じ時期に同じような理由で建設されていることに驚きを禁じ得ません。

 「井川大橋」は、大井川上流にある井川ダム建設時に、旧井川村の水没に対する補償事業というかたちで建設され、1957年(昭和32年)9月に竣工したそうです。

 一方の高瀬橋は、井川大橋同様に、おそらく佐久間ダム建設時の補償事業として建設され、佐久間ダムが完成した約3ヵ月後の1957年(昭和32年)1月に竣工しています。

 ダム建設時の補償事業という同じような理由で、しかもほぼ同じ時期に架けられた同じような木製構造の吊り橋なのに、なぜ高瀬橋は崩落するままにされて放置されたのか、なぜ両者の運命はこんなにも違ったものとなってしまったのか、大いに疑問が残るところではあります。

 やはり通行量や将来性などの橋としての必要性が、両者の間では決定的に違っていたのでしょうか。

 ちなみに、高瀬橋と井川大橋は同じ静岡県内にあり、直線距離で大雑把に見ても40kmも離れていない場所にあります。(Googleマップの測定では両者間の直線距離は約37km)


標識ロープの先は断崖

 標識ロープの先は、断崖となっていますので、立ち入ったり、あまり覗き込むように様子を伺ったりするのはとても危険です。


主塔の周囲の様子

 上の写真は、主塔の下に立って、対岸に向かって左側にある「たかせはし」と刻まれた主塔付近の様子を撮影したものです。

 写真を見てわかりますとおり、この辺りはかつて岩場だったようで、吊り橋を架ける場所として適していたようです。

 写真左奥のほうに続く小道を歩いていくと小和田駅方面へ行くことができます。

 写真右側が河内川になります。


主塔の周辺に散乱する金属製の板プレートのようなもの

 主塔の周囲には、写真のような金属製の板プレートのようなものが散乱していました。

 おそらく高瀬橋の吊り橋を構成していた部品のひとつだと思われます。


主塔付近に放置された金属製の板プレートのようなもの

 主塔付近を歩く時は、これらの金属製の板プレートのようなものに足をひっかけて転ばないように気を付ける必要があります。


ハンガーロープの一部と思われるもの

 主塔の近くには、メインケーブルから垂れ下がって桁や床板を吊るハンガーロープの残骸を見ることができました。


主塔上部の様子

 主塔上部の様子を見上げるようにして撮影したものです。

 往時の高瀬橋は、1日にどれほどの数の人々が利用したのでしょうか。

 わたしは未だ、在りし日の高瀬橋のはっきりとした明瞭な写真を見たことがありません。

 航空写真から見える小さな高瀬橋なら、ネット上で写真を掲載している方がいらっしゃいましたので見ることができました。


樹々の間に見えるメインケーブル

 写真ではとてもわかりにくいですが、樹々の間には、今もピンと張り詰めているメインケーブルの姿を見ることができます。


主塔近くにあった丸太のようなもの

 高瀬橋の主塔近くには、朽ち果てつつある丸太のようなものが数本転がっていました。

 これはおそらく、高瀬橋の主塔近くにあった吊り橋の桁の一部だったのではないかと思われます。

 河内川に崩落しかけていたところを、こちら側に回収したのではないかと推測されます。

 もしそうでなければ、かつての電柱の類の残骸か、あるいは、軽トラックでここまで運んできた材木を、何らかの理由でこの場所に遺棄したものなのではないでしょうか?


主塔前から小和田駅方面へ続く小道を見る

 写真両側の暗い部分は岩肌となっていて、写真奥のほうへ続く小和田駅方面へ行くことができる小道は、岩を切り拓いて造成されたものと思われます。


 以上、高瀬橋の主塔周辺の様子をご紹介いたしました♪

 以下の次の項では、小和田駅から高瀬橋までの道中の様子をご紹介いたします☆





小和田駅から高瀬橋までの道中の風景
高瀬橋へ向かう途中で見える天竜川の水面と緑豊かな山々

 さあ、行ってみよう! 高瀬橋へレッツゴー♪

 住居跡からほんの少し高瀬橋方面へ歩いただけで、そんな明るい気分になれる風景がいきなり現れます。

 小道は綺麗に整備され、ガードパイプも設置されていて、天竜川と緑の山々、青い空が折り合う美しい風景を目にすることができます。

 高瀬橋は、写真左奥のほうの三方の山が低くなっている場所辺りにあります。

 写真をよく見ていただきますと、電線のようなものが小道沿いと、天竜川の両岸をつなぐように見えているのがわかります。

 自分では何の線なのかはわかりませんが、このような人工物を目にすると、この場所が現代文明社会と全く無縁の完璧な秘境ではないことを感じてしまいます。

 そして、うわあ、綺麗な景色だ♪ こんなに整備された小道なら高瀬橋まで気持ちよく歩いて行けるだろう、と思ったのも束の間、写真奥のほうに歩いていくと、上り坂がしばらく続くようになり、途中に「クマ注意!」の注意書きがあり、高瀬橋方面と塩沢集落方面の道が分岐した先は、倒木や小さな崖崩れ痕もありましたので、油断ならない道が高瀬橋まで続くことになります。


小和田駅下の天竜川で活動する浚渫船と土運船

 この日、小和田駅を訪れた時、天竜川のほうから「グオ~ン グオ~ン」と機械音がしていたので、すぐに浚渫船がいるとわかりました。(大嵐駅で経験済み)

 佐久間ダムのダム湖である佐久間湖とその上流の天竜川では、湖底や川底に堆積する土砂を取り去る作業を行う浚渫船(しゅんせつせん)が活躍しています。

 現在では、佐久間ダムの貯水容量に対して約30パーセントが土砂などで占められているといわれ、浚渫作業が非常に重要であることがわかります。

 写真右側に見える浚渫船は、船に設置されたクローラークレーンで湖底の土砂を取り除き、土運船(どうんせん)に積むタイプの「グラブ浚渫船」だと思われ、浚渫船には土運船(長い船)が接舷しています。

 また、上の写真では、写真奥のほうの大嵐方面から別の土運船が近づいてきているのが見えています。


天竜川沿いの小道をしばらく行くと見えてくる橋と沢

 写真の沢に架かる橋は、他の方達によってもよく紹介される橋で、事前にその存在を知っていただけに「ああ、これがあの橋なんだ」と、初めて小和田駅を訪れた自分にとっては、やはりそれなりの感動がありました。

 沢の上方を眺めると、飯田線の吹雪沢橋梁が見えることでも知られています。


この沢の名は吹雪沢?

 小和田駅から天竜川沿いにある小道を歩いて高瀬橋方面へ向かう途中で一番最初に出会う沢なのですが、上方に飯田線の吹雪沢橋梁が架かっていることからすれば、この沢の名は「吹雪沢」ということになるのでしょうか?

 それにしても沢の名が「吹雪(ふぶき)」だとしたら、名前の由来は何なのか知りたいところではあります。

 かつて、冬季にこの沢で雪が舞い上がるような吹雪が見られたのでしょうか。


沢を見上げると見える飯田線の吹雪沢橋梁

 吹雪沢橋梁は全長 38mの短い橋梁で、写真左側(東側)の中井侍方には長尾トンネル(全長 685m)があります。

 写真右方向が西方向で、小和田駅方面(大嵐・豊橋方面)になります。


しばらく続く上り坂

 小道の沢に橋が架かっていて、沢の上方のほうに飯田線の吹雪沢橋梁が見える場所辺りを過ぎると、思った以上に上り坂が続くようになりました。

 写真の小道は、右側のほうが落ち葉などでだいぶ埋もれていますが、山中の道としてはそこそこの道幅が確保されていて、これぐらいの道幅ならば、おそらく小和田駅周辺に遺棄されているダイハツ ミゼットならば通行できたであろうと推測されます。


 ただし、一点気になるのは、写真を見てわかりますとおり、この小道の舗装されている部分は、ミゼットが通るには横幅が十分ではないのではないか?と思われることです。

 ミゼットがこの道を通っていたとしたら、後輪の片輪は未舗装の部分の上を通っていたのか、それともミゼットがこの道を走っていた時は未舗装だったのか、ということが疑問点としてどうしても残ってしまいます。

 この点につきましては、このページの下のほうでご紹介している、高瀬橋方面と塩沢集落方面へ向かう道の分岐点の写真を掲載しているところでも触れていますが、わたしは個人的には、かつてこの小道は、完成時は未舗装だった可能性があると考えています。

 未舗装であったのならば、この小道の有効な横幅は、写真を見た感じでは現在の舗装部分の倍以上はあったものと思われ、ミゼットならば十分通行できたと考えることができます。


 なお、現時点では、わたしは確信的に「ミゼットがこの道を行き来していた」ということができないでいます。

 少なくとも、かつてこの辺りに住んでいた方達の証言なり、自動車がこの道を通行していた写真が残っていれば一番いいのですが、このことは今後とも機会があれば調べていきたいと思います。


 ちなみに、小和田駅周辺から高瀬橋まで続く現在の小道は、高瀬橋(1957年[昭和32年]1月竣工)が建設された時に、同時に佐久間ダム建設補償として造営・整備されたものではないかと思います。

 あるいは、ひょっとしたら、佐久間ダム建設以前からもともとあった山道を利用して現在の小道が整備されたのかもしれません。

 もともと山道があったとしたら、その道は中井侍~小和田間の飯田線建設時(建設当時は三信鉄道)に、建設物資の運搬や工事作業員の移動などに使用されたかもしれません。


何か注意書きのようなものが…

 しばらく上り坂が続いていて歩くことに集中していたので、通り過ぎてから気付いたのですが、道端のガードパイプになにやら注意書きのようなものがありました。

 戻ってしっかりと見てみると…


クマに注意!!

 これです! ここ小和田駅に来る前に、ネットでこの辺りは熊が出る可能性がある、とわかっていたので、まさしくこのことなんだと、あまり嬉しくない納得をしてしまいました。

 この注意書きは、水窪協働センター地域振興グループの方達により掲出されているもののようで、「クマに注意!! この付近でクマの目撃情報がありました。注意しましょう。 鈴やラジオ、笛で自分の存在をアピールしましょう。」と書かれていたようです。

 この付近には、山のほうから天竜川に続く沢のようなものがありましたので、おそらくその場所を伝って熊が山から下りてきたのではないかと思います。

 幸い、この日はクマに出会うことはありませんでしたが、小和田駅周辺を散策する時は十分注意する必要があります。


クマの目撃情報があったという場所付近の様子

 沢があって、橋が架かっていて、道はカーブ形状となっています。


クマの通り道の可能性もある沢

 クマの目撃情報があったという場所辺りにある沢です。

 写真奥方向が山の上のほうになります。

 クマなら歩けそうな岩がゴロゴロとしていますので、この沢がクマの通り道となっていなければよいのですが…

 「クマに注意!!」などと書かれた掲示物を見てしまうと、どうしても、なるべくこの場所には長居しないように、早く離れて遠くへ行きたいという心理がはたらいてしまいます。

 ただ、クマは挑発されたと感じると、防衛本能が働いて襲ってくる場合があるそうなので、ばったり出会ってしまう可能性も考えて、無意味に早歩きしたりするのはやめておきました。


高瀬橋へとひたすら続く道

 ここまでぐらいまで歩いてくると、そろそろ塩沢集落方面への道と、高瀬橋方面への道の分岐点が見えてこないかな~と期待してしまうとともに、上り坂がそろそろ終わって欲しいとも感じるようになりました。

 写真に見える高瀬橋および塩沢集落方面へ続く道は、けっこうウネウネとカーブしているのがおわかりになるかと思います。

 また、これぐらいの道幅があれば、ダイハツ ミゼットならば、通行できた可能性はあります。

 ただし、写真をご覧になってわかりますとおり、道の天竜川側には、おそらく当時からガードレールのようなものは無かったと思われますので、運転を誤ると崖下へ転落する可能性があり、なかば命がけの運転だったといっても過言ではないと思います。

 特にミゼットは、三輪自動車で、コーナーリング時にブレーキをかけると横転しやすいと言われ、走行安定性が高いわけではないからです。


小道脇にあった鉄柱

 このような鉄柱を、高瀬橋へ向かう途中で何ヶ所か見かけたのですが、これが電力関連のものなのか、電話回線関連のものなのか、あるいは物資を運ぶ索道(さくどう)に関するものなのかは自分ではわかりませんでした。

 索道(さくどう)とは、空中に架け渡したワイヤーロープに運搬用機器を吊り下げて人や物資を輸送する施設のことで、この場所のような山間地では見かけられるものなのだそうです。

 山間部を通る飯田線の建設時には、そのような索道が使用されて活躍したそうです。


小道脇にあったNTT西日本の支線柱

 鋼管柱と思われるこの支線柱には「NTT西日本 大幹林道支 支線柱1 229 H10」と書かれたプレートが取り付けられていました。

 「H10」は、おそらく「平成10年」(1998年)のことを意味しているものと思われます。


山中に見えた人工物である線のようなもの

 電線、電話回線どちらのものかはわかりませんが、このような山中でも、この地で生活する人々のために、このような設備類を設置した方々の労苦が偲ばれます。


小和田駅から出発して約15分~20分

 まだまだ山中の小道は奥のほうへ続いていきます。

 小道の写真右側のほうは落ち葉などでけっこう埋もれていますが、それらの落ち葉などの堆積物を除去すれば、この小道は2m程度の横幅はあることがわかります。

 つまり、これまで何度も触れてきましたとおり、現在は小和田駅下に放棄されて朽ち果てつつあるダイハツ ミゼットならば、この小道を通行できた可能性があるということになります。


高瀬橋方面と塩沢集落方面へ向かう道の分岐点

 小和田駅から歩いて約20分程度でついに到着しました☆ ネット上でも何度も見たことがある高瀬橋方面と塩沢集落方面へ向かう道の分岐点です。

 写真左奥のほうにバリケード(トラ柵)を越えて続く未舗装の小道が高瀬橋方面で、写真右上のほうへ登っていく舗装された小道が塩沢集落方面へと続いています。

 ここから塩沢集落方面へは、徒歩約45分と案内されているそうですが、道中は山中の険しい上り道となっているようで、今回わたしは塩沢集落方面へは行きませんでした。

 ネット上では、多くの方がこの分岐点から塩沢集落へ向かう道中をレポートされていますので、とても参考になると思います。

 また、写真中央奥のほうには、ここの分岐点に放棄されていることで有名(?)なオートバイの「スズキ K125」が見えています。

 この場所にオートバイが遺棄されていることは非常に重要で、ここからオートバイに乗って高瀬橋を渡って中井侍駅・平岡方面へ行けたのであろうということと、ひょっとしたら小和田駅方面へ向かって、そこからさらに門谷川を渡って大嵐・水窪方面へ行けたのではないか、ということまで考えられ得るということになります。

 ネット上でこの場所から塩沢集落までの山中の道の状態を見る限り、ここから写真右上のほうへ登る道を通って、この「スズキ K125」が塩沢集落まで行けた可能性はほとんど無いと思われます。

 ちなみに、この「スズキ K125」は、佐久間ダム完成後(1956年[昭和31年]10月)の1965年に発売され2000年まで販売されていますので、通常ならば上述の2つのルートのいずれかを行き来していた可能性が高いです。

 なお、ひょっとしたら、このバイクは飯田線の貨物列車で運ばれてきて、単にこの場所と小和田駅周辺を往復していただけ、という可能性も否定しきれません。


 また、この分岐点を見て、もうひとつ考えられうるのは、おそらくかつてはメインルートであった高瀬橋方面へ向かう小道が舗装されていない、ということは、小和田駅からこの分岐点まで続いている小道も、かつては舗装されていなかったのではないか、という見方が浮上してきます。

 そうすると、上述してきましたように、小和田駅からこの分岐点まで続く小道がかつて舗装されていなかったのであれば、現在小和田駅下に遺棄されているダイハツ ミゼットがこの小道を通行するには十分の横幅があった、といえるものだと思います。


「この先 高瀬橋 通行不可」の看板とバリケード

 高瀬橋方面へ向かう小道の入口には、「この先 高瀬橋 通行不可 天竜土木整備事務所 浜松市」と書かれた看板が立てられ、「浜松市」と書かれたバリケード(トラ柵)が設置されています。

 特に「進入禁止」の表示はありませんので、いわゆる自己責任でこの先の高瀬橋を目指すことはできるようです。

 写真右上のほうには「スズキ K125」が見えています。


スズキ K125

 「スズキ K125」は、1965年に発売されて2000年まで販売されていますので、ここに遺棄されている「スズキ K125」は、佐久間ダム完成後、および高瀬橋竣工後にこの場所へやってきていることがわかります。

 レッグシールド部分には、徳川家の家紋の三つ葉葵が描かれ「交通安全祈願 山住神社」と書かれたシールが貼られています。

 このシールの出所である山住神社は、おそらく浜松市天竜区水窪町山住にある山住神社のことだと思われます。

 その山住神社は、西暦709年(和銅2年)からの歴史があると言われ、武田信玄と三方ヶ原で戦って敗れた徳川家康が、浜松城の北東の護り神として深く信仰したそうで、遠州、三河、尾張、信州から多くの信者を集めた由緒ある神社となっているそうです。

 山住神社は、今日でも、商売繁盛、家内安全、病気平癒、交通安全の御祈祷が行われ、毎年4月17日と11月17日に例大祭が行われているそうです。

 ということは、この「スズキ K125」は、水窪方面から来て門谷川を渡って小和田駅傍を通ってこの場所まで走行した可能性が有り得ることになります。

スズキ K125のエンジンまわりの様子

 スズキのエンブレムや、「SUZUKI 125」と刻まれたプレートが見えています。

 「スズキ K125」は、1965年から2000年まで約35年の長きにわたり販売されたロングセラーモデルで、販売期間中に装備の小変更などが行われているそうなので、詳しい方が見れば、この「スズキ K125」がいつ頃発売されたモデルかおわかりになるのではないでしょうか。

 なお、写真中央に「ハウスキャット 混合計量タンク」と書かれた青色と白色の紙切れのようなものが見えていますが、さすがにこれは「スズキ K125」とは関係無く、どこか別の場所からここに取り付いたものだと思われます。

遺棄された「スズキ K125」のメーター部分

 メーターは140km/hまで刻まれ、走行距離は32,494km300mで止まっています。

 そのほか、メーターのプレートには「60km/h 1400rpm」、「NIPPON SEIKI JAPAN」などの表示が見えます。

 この場所を拠点として、高瀬橋方面へ行くにしても、小和田駅方面へ行くにしても、道にはガードレールはほとんど無く、道幅や道路の状態も決して良かったものとは思われず、このバイクを運転するのは、日々なかば命がけであったであろうことは想像にかたくありません。

 心地よいスピードで、山野を駆け抜けるといった感じでは無く、おそらく慎重に慎重に天竜川沿いの道を走ったものと思われます。

 そのため、この「スズキ K125」の持ち主の方が、上記のように山住神社(水窪町)で交通安全を祈願されるのもわかるような気がします。

スズキ K125の後部に取り付けられたリアボックス

 このリアボックスを見ると小型で、あまり多くの荷物を積めるわけではなく、ひょっとしたら、この「スズキ K125」に乗っていた人は、この地から別の場所へ日々通勤するためにこのバイクを使用していたのではないか、とも思いました。

 いわゆるサラリーマンの方だったのかもしれません。

 もちろん、この地で農林水産業や土木工事関連に携わる方のものだったかもしれません。

 いずれにせよ、食料品や日用品などの買い物(買い出し)に使用するには、少しリアボックスが小さいのではないかなあ、と個人的には感じます。

 なお、この「スズキ K125」がこの場所に放棄されているのは、この地に来たらたまたま土砂崩れや橋の崩落などにより道路が通行不可能になってしまってやむをえず放棄した、あるいは悪意の違法投棄の可能性も否定しきれません。

 なお、ガソリンはタンクに残っているようでしたので、ガス欠のために放棄されたものではないと思われます。

遺棄されたスズキ K125~松本零士先生の戦場漫画シリーズ「鉄の竜騎兵」を想い起こす

 高瀬橋方面と塩沢集落方面へ向かう小道の分岐点を越えて、少し高瀬橋方面へ歩いて行った場所で、後ろを振り向いて分岐点周辺の風景を撮影したものです。

 この風景… どこかで見たこと、感じたことがあるような…

 思い出しました☆ バイク乗りの兵士たちを描いた松本零士先生の戦場漫画シリーズ「鉄の竜騎兵」のワンシーンです♪

 この「スズキ K125」を運転していた人は、かつて確実にいらっしゃったのですが、今はもうこのバイクはこの地で二度と動くことは無いのだ…

 このフレーズはあたかも、松本零士先生の戦場漫画シリーズ「鉄の竜騎兵」のワンシーンを彷彿とさせます。

 なお、漫画「鉄の竜騎兵」は、アニメ制作会社「マッドハウス」によりアニメ化(OVA)もされています。


「この先400m(高瀬橋) 通行できません」の表示

 高瀬橋方面と塩沢集落方面へ向かう小道の分岐点を越えて、少し高瀬橋方面へ歩いて行った場所で、右手側の木にくくりつけられた「この先400m(高瀬橋) 通行できません 天竜土木整備事務所」と書かれた案内表示がありました。

 「通行できません」と言われると、普通ならがっかりするところですが、もともと高瀬橋は崩落して渡れないことはわかっていますので、この時はむしろ「高瀬橋まであと400m!もう少しだ!」という喜びの気持ちのほうが大きかったです。

 この辺りには、写真のようにブルーシートなどがかけられたところがあったわけですが、ひょっとしたらこの辺りは、かつて天竜川の対岸(右岸)からこちら側へ物資を運んだといわれる索道(さくどう)があった場所辺りなのかもしれません。


高瀬橋へはあと約400m

 高瀬橋方面と塩沢集落方面へ向かう小道の分岐点を越えて、高瀬橋方面へ50mほど歩いて行った場所の様子です。

 小道の右手側(山側)の半分以上が、落ち葉や土砂、落石などで埋もれたり、樹木が根をおろして生育してしまっているところも見えますが、未舗装ながらも道幅はかつて2m程度はあったと思われ、実際に通行したかどうかはわかりませんが、この辺りもダイハツ ミゼット(MP型/車幅は約1.3m)ならば、理屈的には通行できた可能性があります。


高瀬橋まであと200mぐらいのところで遭遇した土砂崩れ

 小和田駅から高瀬橋へ向かう途中で小規模な土砂崩れが発生している、ということは事前にネット上で見たことがあって知っていたことなのですが、歩くことに集中していてすっかり忘れていて突然目の前にその場所が現れると、やはり少々驚いてしまいます。

 土砂崩れが発生している場所は、人が歩いた踏み跡がはっきりと残っていて、おそらく踏破できるのだろう、ということはわかりますが、土砂の頂上部が若干、天竜川の崖下のほうへ傾いているのが非常に気になり、一瞬足を止めてしまいました。

 結果としては、もちろんそのまま進んだわけですが、土砂の地盤は現時点では安定していて、ゆっくり慎重に踏みしめて行けば、おおむね安全に越えることができました。

 ただし、履いている靴がすべりやすかったり、足に力が入らない状態だと感じたら、無理に進むのはやめたほうが良いと思います。

 一歩間違えれば、写真左側の崖下の天竜川のほうへ滑落してしまう危険性があります。

 なお、この場所は現在は写真のような状況ですが、かつては写真右側に見える岩肌を切り拓いた場所に、横幅2m程度はあったであろうきちんとした道があったものと思われます。


土砂崩れを越えた先には倒木が

 土砂崩れのあった場所を越えると、今度は道の行く手をふさぐかのように倒木が現れました。

 高瀬橋へ行く途中には倒木がある、ということも土砂崩れ同様に事前にネットで調べて知っていましたので、ここはあわてることなく、倒木の下側をくぐってクリアして先に進みました。


さらに現れる倒木

 今はまだ比較的楽に倒木はクリアしていけますが、この道もある程度の年月が経てば草木に覆われたり、倒木や土砂崩れなどで通行不能の廃道となり、いずれは高瀬橋に到達できなくなる可能性があると思います。


小道の左手側を流れる天竜川と鉄柱

 高瀬橋へ向かう小道は、場所によっては天竜川側が急峻(きゅうしゅん)な崖となっているところがあり、歩く時は滑落しないよう十分注意をする必要があります。

 なお、写真中央あたりには鉄柱が見えていますが、これが電線用、電話回線用、あるいは物資をワイヤーロープで運ぶ索道(さくどう)に関するものなのかどうかは、わたしではちょっとわかりませんでした。


道中にあった纏を持ったリスが描かれた「火気注意」の看板

 看板には「火気に注意 静岡県 天竜地域林野火災防止協」と書かれ、江戸時代の消防組織である「火消し」の旗印だった纏(まとい)を持ったリスが描かれていました。

 なお、看板の後ろにある一斗缶(いっとかん/角形の金属缶)のようなものが、一体何の目的でこの場所にあるのかがわかりませんでした。

 雨水を貯めておいて、いざという時の消火に使うためのものなのでしょうか?


再び現れる倒木

 高瀬橋までさすがにあともう少しだろう、と頑張って歩いていると、さらに倒木が現れます。

 これらの倒木は、単に跨いでクリアすれば何の問題もないのですが、写真をご覧になってわかりますとおり、左手側は断崖となっていますので、倒木を跨ぐ時に侮って足を滑らせて崖下に滑落しないよう十分注意する必要があります。

 目指す高瀬橋まで近づくにつれ、土砂崩れや倒木が増えるということは、この区間が人が使わない廃道となって長い年月が経っていることを間接的に証明しているのだろうと思います。


小道の左手に見える天竜川の水面

 かつてオートバイやミゼットのような軽クラスの自動車でこの道を走っていた方達がいたとしたら、おそらくこの断崖と天竜川に目をやりつつ、とても慎重に運転をされたことでしょう。

 それでもこの区間は未舗装だったため、タイヤやハンドルが思わず滑る感覚を味わって、とてもヒヤリとした瞬間があったのではないでしょうか。

 ひょっとしたら、実際に転落事故が発生してしまっているかもしれません。


高瀬橋へ向かう道中で頭上に見える民家

 ネット上では、明確に〇〇さんのお宅ではないか、と推測されていらっしゃる方達もいらっしゃいますが、わたしではそのあたりの情報は疎く、こんなところに民家がある!ぐらいの認識となってしまっています。


まだ状態も良さそうで住めそうな民家

 日本は今、長い時間をかけて山村の過疎化や、少子化、高齢化が進行しています。

 これからの未来に、山村での生活が見直され、再び山村に活気が戻ってくる時代が訪れる日がやって来るのでしょうか?

 もしかしたら、そう遠くない将来に山間部の彼方此方(あちこち)に、トヨタ自動車が静岡県裾野市に現在建設中のスマートシティである「ウーブン・シティ」(Woven City)のような街ができる時代がやってくるのでしょうか?

 未来を完全に予測するのはとても難しいことではあります。

 これらの民家が日本の文化遺産として、いつまでも末永く綺麗に残っていけるとよいのですが、木造家屋なので現実はなかなか難しいのかもしれません。



山中にあった小屋のようなもの

 こちらの小屋のようなものも、ネット上ではよく紹介されている人工物のひとつとなっています。

 この辺りの農林業に関する物置や、山道の維持管理のための物置、または休憩のための小屋やトイレ、あるいは狩猟用の見張り小屋だったのでしょうか。


ついに到着、高瀬橋

 そして… ネット上でも見たことがある風景が現れ、そこには…

 ありました! コンクリート製の主塔が樹木の間に見えました♪ ついに高瀬橋に到着です☆

 小和田駅から徒歩約25分といわれていますが、道中に上り坂区間があったり、クマ注意の注意書きが有ったり、土砂崩れや倒木もあったりで、散策道と言っても簡単な徒歩約25分ではなかったように思います。

 高瀬橋の主塔の周囲は、岩肌が多く、おそらく岩場を掘削して高瀬橋の入口を造ったのだと思います。


 そして、小和田駅下からここまでの道のりを実際歩いてみて、個人的に感じたことを総括いたしますと、これまで何度も触れてきましたように、現在小和田駅下に遺棄されているダイハツ ミゼットは、理屈的には、小和田駅下からここ高瀬橋まで続く小道を通行できたであろう、と推測されます。

 小和田駅下からここ高瀬橋まで続く小道は、現在は舗装区間と未舗装区間があるわけですが、おそらくこの小道が健在だったころはすべて未舗装区間だったものと推測され、道幅もほぼすべての場所で約2m程度は確保されていたものと思っています。

 これらは、あくまで現時点でのわたし個人の見解・推測ですので、新たな事実が見つかり次第、このページの記述は訂正・加筆をさせていただくことになると思います。


 以上、小和田駅北東にある高瀬橋を訪れてみた様子をご報告いたしました☆

 個人的には、本当にダイハツ ミゼットが高瀬橋を渡って小和田地区と中井侍駅・平岡方面の間を行き来していたのか、というテーマは、今後とも真実を探求していけたらいいなあと思っています。







小和田駅(小和田-中井侍)
こわだ


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