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「ウッディジョー(WoodyJOE)」の展示コーナーの様子です。 例年温かみを感じる木製製品がずらりと並んでいて、その完成品のとても美しい出来栄えに毎年のように感嘆しています。 わたしが小さい子供の頃、父方の両親(祖父祖母)の実家に透明ショーケースに入った立派な木製キットの完成品と思われる「日光東照宮 陽明門」があったのが思い起こされます。子供心にもすごく立派だなあと感心したのでよく覚えていますが、ひょっとしたらまだ奥の部屋の方にあるのかもしれません。プラモデルを作るのは好きでしたが、さすがにあの「日光東照宮 陽明門」クラスの木製キットを作り上げる自信はありませんでした。それぐらい細かい造りでパーツ数が多そうだったのを記憶しています。また、親戚か誰かから、値段も高いことを聞かされていたことも記憶しています。 |
「1/75 レーザー加工キット 平等院 鳳凰堂」(全高:260mm / 全幅:732mm / 奥行き:311mm)です。 平等院(びょうどういん)は、京都府宇治市にある藤原氏ゆかりの寺院で、平安時代後期・11世紀の建築、仏像、絵画、庭園などを今日に伝え、「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されています。鳳凰堂は天喜元年(1053年)の建立で、浄土式庭園の阿字池の中島に東向きに建っていて、本尊阿弥陀如来像を安置する中堂(ちゅうどう)、左右の翼廊、中堂背後の尾廊の計4棟が「平等院鳳凰堂」として国宝に指定されています。 平等院鳳凰堂は、10円玉のデザインにもなっている有名な建築物です。わたしは小学校6年生の修学旅行で行きましたが、建物正面側に生徒が集合して10円玉と見比べたりしながら、天候は小雨が降っていたように記憶しています。なお、造幣局では便宜上、平等院鳳凰堂が描かれている面を「表」、大きい「10」の数字と年号の記された面を「裏」としていますが、明治時代の硬貨と異なり、法律上は十円硬貨に表裏はないそうです。また、1951年(昭和26年)から1958年(昭和33年)にかけて製造された十円硬貨には、その縁にギザがあり、俗に「ギザ十(ギザジュウ)」と呼ばれています。わたしは「ギザ十」を小さい頃から収集していますが、発行枚数の少ない昭和33年のもの(※発行枚数2500万枚)は何百枚とあるコレクションの中でも10枚あるかどうかです。ただし、「ギザ十」の価値としては、実際の取引市場においてその発行枚数の多さゆえに、未使用品でない限り全く取り合ってもらえないのが現状のようです。 【引用参考参照『Wikipedia』~以下「建築物」、「歴史」、「人物」等に関する説明も同様】
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「1/75 咸臨丸」(全長:820mm / 全幅:203mm / 全高:487mm)です。NHK大河ドラマの「龍馬伝」が放送中のためか、坂本龍馬のミニチュアフィギュアも置いてありました。 咸臨丸(かんりんまる)は、幕末期に江戸幕府が保有していた初期軍艦で、木造で3本のマストを持つ蒸気船でした。洋式の軍艦としては、観光丸(外輪船)に次ぐ2番艦ですが、洋式のスクリューを装備する船としては初の軍艦であったそうです(スクリューは入出航時に主に使用され、航海中は抵抗を減らすため水線上に引き上げる構造になっていた)。
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上の写真画像も左同様「1/75 咸臨丸」で、やや後ろ斜め上方から撮影したものです。 特に咸臨丸が有名なのは、幕府の船として初めて太平洋を往復したことからその名を知られています。この渡米した時に咸臨丸に乗船していたのは勝海舟、ジョン万次郎、福澤諭吉ら歴史上の著名人物達でした。咸臨丸は幕府の練習艦として用いられた後、戊辰戦争に参加するものの、軍艦としての機能は他艦に劣り、既に運送船の役割を担っていた咸臨丸は新政府軍によって拿捕されてしまいます。明治政府に接収された後は、開拓使の輸送船となったそうです。 そして、1871年9月19日(旧暦)、咸臨丸は片倉氏の旧臣401名を移住させる目的で北海道小樽へ向け出航しますが、輸送途中、北海道木古内町和泉沢沖で暴風雨により遭難し、サラキ岬で破船、沈没してしまいます。その後100年余り経過した1984年に、サラキ岬沖で鉄製の朽ちた錨が発見され、咸臨丸のものか? と話題になったそうです。そして2006年9月20日に、錨は咸臨丸のものと発表されたとのことです。 |
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「1/75 レーザー加工キット ゴールド仕様 鹿苑寺 金閣」です。 鹿苑寺(ろくおんじ)は、京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺院で、1397年(応永4年)、足利義満が河内国の領地と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築によって一新したもので、寺名は足利義満の法名に因んでいるそうです。通称は金閣寺(きんかくじ)で、室町時代前期の北山文化を代表する建築であり、1994年(平成6年)に古都京都の文化財として世界遺産に登録されました。中心となる建築物である舎利殿を「金閣」、寺院全体を「金閣寺」と通称しています。 1950年(昭和25年)7月2日未明、放火により国宝金閣(舎利殿)と安置されていた仏像等を焼失してしまいます。現在の金閣は、1904年(明治37年)から1906年(明治39年)の解体修理の際に作成された旧建物の詳細な図面や写真・古文書・焼損材等の資料を基に、1952年(昭和27年)から3年を掛けて復原再建されたもので、1955年(昭和30年)10月10日に落慶法要が営まれたそうです。その後、再建から10年あまりで金箔が剥落して下地の黒漆が見えるようになり、その漆も紫外線で劣化するようになったため、1986年(昭和61年)2月から1987年(昭和62年)10月まで1年8ヶ月、総工費約7億4千万円(当時)を投じて「昭和大修復」が行われ、漆の塗り替えや金箔の張り替え、天井画の復元等の修復工事が行われました。この修復工事に際し、金箔は通常(約0.1µm)の5倍の厚さ(約0.45〜0.55µm)の「五倍箔」約20万枚、漆は国産の「浄法寺漆」約1.5トンが使用されたそうです。
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「1/50 レーザー加工キット 石山寺 多宝塔」です。 石山寺(いしやまでら)は、滋賀県大津市石山寺1丁目にある東寺真言宗の寺院で、本尊は如意輪観音、開基(創立者)は良弁(ろうべん)です。当寺は京都の清水寺や奈良県の長谷寺と並ぶ、日本でも有数の観音霊場であり、西国三十三箇所観音霊場第13番札所となっています。また、当寺は『蜻蛉日記』、『更級日記』、『枕草子』などの文学作品にも登場し、『源氏物語』の作者である紫式部は石山寺参篭の折に物語の着想を得たとする伝承があるそうです。「近江八景」の1つ「石山秋月」でも知られます。 多宝塔は国宝となっていて、 建久5年(1194)に建立され、年代の明らかなものとしては日本最古の多宝塔です。内部には快慶作の大日如来像を安置しています。
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「1/75 レーザー加工キット」の「薬師寺 東塔」と「法隆寺 五重塔」です。 薬師寺(やくしじ)は、奈良県奈良市西ノ京町にある寺院で、興福寺とともに法相宗の大本山であり南都七大寺のひとつに数えられるそうです。本尊は薬師如来で、開基(創立者)は天武天皇とのことです。1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されています。 また、国宝でもあり、現在寺に残る建築のうち、奈良時代(天平年間)にさかのぼる唯一のものだそうです。総高は34.1メートル(相輪含む)で、日本に現存する江戸時代以前に作られた仏塔としては、東寺五重塔、興福寺五重塔、醍醐寺五重塔に次ぎ、4番目の高さを誇っているようです。屋根の出が6か所にあって、一見六重の塔に見えますが、下から1・3・5番目の屋根は「裳階(もこし)」と呼ばれるものだそうで、構造的には三重の塔ということになるみたいです。 法隆寺(ほうりゅうじ) は、奈良県生駒郡斑鳩町にある聖徳宗の総本山で、聖徳太子こと厩戸王ゆかりの寺院であり、別名「斑鳩寺(いかるがでら)」と呼ばれる著名な寺院です。五重塔は国宝で、木造塔として世界最古のものとされています。 創建は同じく聖徳太子ゆかりの寺院である大阪の四天王寺より約20年後の607年とされていますが、確証はないそうです。法隆寺は、金堂、五重塔などがある西院と、夢殿などのある東院に分かれていて、西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群だそうです。 法隆寺の建築物群は法起寺と共に、1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されています。
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「1/45 サンタマリア」です。 「サンタ・マリア号(La Santa María)」は、1492年、コロンブスによる初の大西洋横断航海のときに使われた3隻の帆船のうちの最大の船だそうです。 ナオ船(スペインで建造されたキャラック船の一種)と呼ばれる型の帆船で、長さ約70フィート(18メートル)で、甲板と3本のマストを備えています。 大西洋を無事に横断してバハマ諸島に到達しましたが、探検の途中、1492年12月24日にイスパニョーラ島で座礁し、解体され、使える木材は要塞の資材として使用されたそうです。 この航海で用いられた他の2隻はキャラベル船(3本のマストを持つ小型の帆船)の「ニーニャ号」と「ピンタ号」だったそうですが、3隻のいずれもが中古船で、探検を目的として建造された船ではなかったとのことです。
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その他、展示されていたウッディジョーの商品です。 |
「1/150 名古屋城」です。 名古屋城(なごやじょう)は、尾張国愛知郡名古屋(現在の愛知県名古屋市中区・北区)にあった城郭です。通称、「金鯱城」、「金城」とも呼ばれ、日本100名城に選定されています。 名古屋城は、織田信長誕生の城とされる今川氏・織田氏の那古野城(なごやじょう)の跡周辺に、徳川家康が九男義直のために天下普請によって築城したとされています。以降は徳川御三家の一つでもある尾張徳川家17代の居城として明治まで利用されました。 姫路城、熊本城とともに日本三名城に数えられ、伊勢音頭にも「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ、尾張名古屋は城で持つ」と歌われています。 大天守に上げられた金の鯱(金鯱(きんこ))は、城だけでなく名古屋の街の象徴にもなっています。 大小天守や櫓、御殿の一部は昭和初期まで現存していたそうですが、名古屋大空襲(1945年)によって天守群と御殿を焼失し、戦後に天守などが復元されて、現在城跡は名城公園として整備されています。 1965年から毎年7月に大相撲七月場所(名古屋場所)が開催されている愛知県体育館も名城公園内にあります。
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